第543話 分水嶺
ここが分かれ道だ。
と、わかった。
人の世を越えようとしている。
何処であろうと踏み出せば、私だけでなく、彼も宮の内になる。
鏡の中の男が何者であろうと、これは扉なのだ。
私達を試す、扉なのだ。
恐れ触れれば、簡単に開くだろう。
この後、進む道を定めてしまう。
なるほど、と、焦る意識の片隅で思う。
この墓は境界が薄い。
何某かの声が届きやすいのだろう。
だから、ここを辿れと伝えたのか。
境界。
何処へと問う必要はない。
黄泉の泉、死者の宮だ。
まずい事に鏡の男も、私達に気がついている。
見えている事に。
今更、知らぬふりでやり過ごせそうか?
周りの兵士たちの注意は、私達からそれている。
墓を見ているだけなのだ。
彼らには、墓について二人で話し込んでいるように見えるのかも知れない。
周囲を歩く姿を見れば、彼らに男は視認できていないのがわかる。
私達だとて、鏡の中だけに見えている。
グリモアによる視界だろう。
それは繋がりをもってしまったカーンにも言える。
彼は、男に動きがあれば斬るつもりだ。
その考えに至った時点で、負だった。
そして男が近づいた事に怯えた私もだ。
祭司長が言う、豆の法則だ。
だが、無視を決め込んで無事に済むとは限らないのも事実。
「寄らば、斬る」
静かに息を吐くとカーンは呟いた。
体は弛緩し、周りの者にも気取られていない。
だが、きっと間合いに入れば、この男は剣を一閃するだろう。
それは鏡の中の男にも伝わったようだ。
ゆらり、と男が揺れる。
風に吹かれる葦のように、揺れてとどまる。
実際、斬れるのだろうか?
と、私は疑うが、カーンが斬れると確信している事が重要なのかも知れない。
ここは物質と精神の境界地だ。
豆は空から降ると信じた者が勝つ。
それがわかるのだろうか、ひそりと男の影も気配を薄くした。
対峙し、見つめ合う。
暫し...
「団長、これからどうされますか?」
ミアの問いかけに、集中が切れた。
幸いにも、それた意識を戻す間に、鏡の中の男は消えていた。
残滓の霞は鏡を曇らせているが、それでも気配は消えて去ったと感じる。
ほっと私達は緊張を解き、振り返った。
当然、生きた人間だけが見える。
「岸辺に戻り、宿営の準備。
近隣の探索を始めろ」
ミアは護衛と野営、それに探索に兵士を分けた。
その様子を眺めつつ、私達は、もう一度鏡を覗き込んだ。
「ここにどのくらい留まるのですか?」
「何もなかったら、直ぐに帰るつもりだった。出たな、ったく面倒くせぇ」
「でましたね」
「ありゃぁ何だ、幽霊って奴か?」
「わかりません。単に見知らぬ者が来たので出てきたのかも知れませんよ。」
「騎士装束だったぞ」
「見えたんですか?私には男としか」
「剣を下げていたんでな、こっちも何かされたら抜いてやろうかと」
霊を斬れるのですか?
と、聞いて疑念を与えたくはない。
斬れると信じているなら、斬れるものだ。
「旦那、コルテス家の方に、墓の話を聞くことはできますかね」
「幽霊がでやがったってか?」
墓を離れつつ、私は肩越しに宮居のような建物を眺めた。
「難しいが、まぁ考えてみれば必要か」
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