第527話 鏡

 沼は、澄んだ水にを揺らめかせている。

 北には無い、美しさだ。

 汚染も目には見えず、恐ろしい病の姿も無く、美しい姿だけがある。

 今までの川や湿地の汚泥とは打って代わり、澄み切って深い。

 その深さは、濃い藍色を含み森閑としている。

 覗き込むと己も沈み込むような気がした。

 胸が苦しい。

 これは私の苦しさなのか?

 誰の、心の痛みなのだろうか。

 私達は、黙って沼を見つめた。

 饒舌さは消え、偽りも消え、沈黙が降りる。

 私が質問し、カーンが答える。

 それはお互いに答えられる事柄だけを話していただけだ。

 お互いに、馬鹿な嘘を重ねないように、そのふちを歩いていただけだ。


 記録が終わると、再びの遡上を始めた。

 気になる事はある。

 だが、分別もある。

 気になる事があるからと、全てに口と手を出すのは愚かだ。

 まして、傍らの男から伝わるのは、閉じられた意思だ。

 忌まわしさ。

 警戒。

 素早い思考の流れ。

 何かを考えている。

 その緊張は、グリモアを介して私にも伝わる。

 私の考えが一枚の紙なら、今、カーンの中では幾枚もの紙が繰り続けられている。


(自惚れた馬鹿ならよかったのにね。

 喰いでのある嘘を吐き散らしてくるような愚物なら、宮の所望に答えるのにさ。

 妙に聡く、義理堅い。

 まして理屈抜きで答えに至る奴って、面倒なんだよなぁ。

 神は、約束を守る者。

 義理を果たす者。

 過ちを認める者を赦すのさ。

 例え、それが多くの命を奪ったとしても。

 己が為じゃなければね。

 あぁ嫌だ嫌だ。

 さぁ、ちょっとだけ口を出そう。

 宮の主が慈悲の為、これは対価を求めぬ、お喋りだ。)


 不意のグリモアの言葉に目を細める。


(大丈夫、そこの愚か者には聞こえぬよ。

 これは供物への助言である。


 さて、先程見かけた児戯は、我々が執り行う儀式ではない。

 我々は、多くのを欲するが、望まぬ者を刈り取りはしない。

 捧げられるは、自らを差し出す行いである。

 また、我々がは、泉に沈みし死者の宮の嘆きのみ。

 そして我らが刈り取り捧げるは、宮の主が望む者のみ堕落の魂だ。

 故に、断言しよう。

 供物の女よ。

 神の子よ。

 あれはが望む行いではない。

 そして今一度、振り見、考えよ。

 邪悪とは何か、間違いとは何かを。)


 語るは、少年ではない。

 声はナリスに似ていた。


(本の声だよ。

 君の知らない、君をよく知っている誰かさ。

 さて、この男は愚かな人殺しではあるが、大きな群れを率いる頭領でもある。

 家長であり貴族の長であり、兵隊の長。

 血族氏族で言えば、父親の役目を担う者なのさ。

 つまり女子供には、基本、何も言いたくないのさ。

 だから、詳細な話はしないだろう。)


 いつもの少年の声は、カラカラと笑った。


(つまり、非常に醜悪で残酷な代物なんだよ。

 さっきのアレはね。

 で、それを前にも見たことがあった。

 それも彼ら獣人の兵隊がね。

 要するに、戦のあった場所で見たことがある、のろいだ。

 野蛮で血腥ちなまぐさい痕跡だ。

 それがここにあって、警戒心を引き上げたのさ。

 理解したかい?)

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