55章 海の嘆きと森の歌

760. 黒く不気味な海

 海辺へ移動したベルゼビュートは、不思議な感覚に目を伏せた。何かに呼ばれた気がする。不確かな幻覚に近い、淡くて曖昧な何かが琴線に触れた。ただそれだけの理由で海辺に現れた精霊女王は、海風に乱れた髪を乱暴にかき上げる。


 結った髪を下したため、ほぼストレートに近い状態のピンクの髪が背にかかる。巻き毛にしている時より長くなった髪が、腰の下まで背を覆った。べたつく海風に晒され、絡みつく髪が湿るのが気持ち悪い。夕暮れを過ぎて夜闇が海を暗く染め始めた。


「何も、ないわよね」


 これ以上いても仕方ない。そう考えて背を向けようとした彼女は、向けられた殺意に目を細めた。海辺の小さな集落は、人族が手を加えた土地だ。大地を固め、木々を伐り倒し、自然の悲鳴を無視して作られた人工的な空間だった。見ないフリで通り過ぎてあげようとしたのに。


 殺気を向けられたら、無視するわけにいかないじゃないの。自分に理由を付けたベルゼビュートは、ローブの長い裾を風に遊ばせながら、緩む唇を指先で戒めた。赤く染めた爪が、ローズに塗った唇に華やかさを添える。口角が持ち上がり、こらえ切れない愉悦がベルゼビュートの表情を一変させた。


「愚かね。お前を守る魔王陛下の庇護は尽きたというのに」


 以前は勝手に人族を排除できなかった。最強の魔王ルシファーが禁じたのは「反撃以外の一方的な攻撃」だったが、魔王妃となるリリスを傷つけられたあの日以降、その命令は撤回された。無期限とされた禁止令は解除され、いつ人族を排除しても構わない。


 大人しくしていれば狩られずに済むのに……人族は愚かにも大公ベルゼビュートに殺意を向けた。魔族にとって強者に殺気を放つ行為は、宣戦布告と見做される。


 せっかく海辺まで来たのだから、多少遊んであげてもいいわ。


 浮かれた気分でベルゼビュートは、人族の集落へ向けて足を進めた。羽織っていたローブを脱ぎ捨て、指を鳴らして着替えを済ませる。魔法陣すら要らない。ゆらりと魔力を漂わせる彼女の周囲に、多くの精霊が駆け付けた。収納から聖剣を選んで右手に握る。


 森を傷つける人族に対し、精霊も妖精も良い印象を持つはずがない。近づく先で、集落は大騒ぎとなっていた。精霊女王が命じるまでもなく、精霊は己の眷属だった木材や土に語り掛ける。復讐の時が来たのだと――その声に従い、木造の建物が自ら崩れ去った。


 建物の土台を成す石は転がり、壁の漆喰に使われた石灰や砂がぼろぼろと零れ落ちる。ベルゼビュートの魔力が届いた先から、自然物は彼女の味方をした。建物は土台から崩れて人々を押し潰し、動物を囲う柵は崩れる。放たれた家畜が逃げる者を踏み、蹴飛ばし、惨劇を生み出していく。


「あたくしの出番はなさそうね」


 くすくす笑いながら、ベルゼビュートは振り下ろされた剣を聖剣で受け止めた。弾くまでもない。聖剣の刃は、男の剣を折って砕いた。魔力による結界が、降り注ぐ破片を散らす。きらきらと月光を弾いた欠片が舞った。


「ば、ばけものっ!」


「失礼ね。これでも美女で通ってるのよ?」


 豊満な肢体を見せつけるドレス姿の女王はぼやくと、男の首を跳ねた。武器を持つ者はほぼおらず、家畜目当てに森から下りた魔物が人族も狩っていく。血の惨劇を気にせず村を通り抜けたベルゼビュートは、足元に打ち寄せる海水に気づいて膝をついた。


 指先に触れる海が濁っている。濡れた指先が気持ち悪いのは、水が何かに汚染されたからか。報告の必要があると判断したベルゼビュートは海水をくるりと結界で包み、魔王城へ飛んだ。


 彼女の姿が消えた海沿いの村は、生き残った数人が恐る恐る顔を見せる。ひたひたと足元に忍び寄る海水が突然村を飲み込み、生存者も家畜も水底みなぞこへ引きずり込まれた。突然見せた狂気を誤魔化すように、海は静かに波を打ち寄せては引く。


 夜空を映した海が黒いのは、はたして空の色だけか――。

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