616. 出来るだけ近くに、いて

 部屋の前でばったり顔を合わせた5人と1匹は、互いを見つめたまま動きを止めた。


「イポスさん……もう平気なんですか?」


「ええ、心配をかけましたが護衛の任に戻るつもりです」


 平気かと問われれば、頷ける。イポスの背の傷は塞がりきっていないが、盾となって主人を守る程度の働きは可能だった。そう匂わせた彼女の覚悟に気づいて、シトリーとルーシアが顔を見合わせる。しかし指摘する無粋はしなかった。


 ルキフェルがリリスを連れて入った客間の前で、全員が居住まいを正す。珍しく全員がドレスやワンピース姿で、ルーサルカがドアをノックして声をかけた。


 入室を許可する声がベールだったことで、全員が少しの間固まる。予想外の事態に弱いメンバーばかりなのだな……そんな感想を持つ翡翠竜が、体当たりで扉を開けた。


 ぽてんと床に転げ落ちて受け身を取り損ねたアムドゥスキアスが「痛い」と文句を言いながら、強かに打ち付けた尻を撫でる。短いドラゴンの腕では打ち身の場所まで届かず、ぬいぐるみのようで微笑ましかった。苦笑したレライエが拾い上げて、代わりに尻尾のつけ根の上を撫でる。


「リリス姫の護衛の任をお許しいただきたく、はせ参じました」


「ではお願いします」


 ベールの許可を得て入室した彼女達は再び固まる。予想外過ぎる光景が広がっていた。床は絨毯もフローリングも関係なく、大量の書類が散らばる。図面も含まれるそれらは空中にも固定され、真剣ににらみ合うルキフェルの指示で左右に動いた。集中していて、少女達の入室に気づかないルキフェルが突然声を上げる。


「そこ、踏んでる」


 ほぼ真後ろなのに、レライエの爪先が図面に触れたと指摘したルキフェルは、普段使わない複数演算を使い、魔法陣を組み立てていた。脳が疲れると使わないようにしているが、これにより大幅な時間短縮が見込める。慌てて足を引っ込めたレライエが、上位竜の能力に驚いて息をつめた。


「計算は問題なさそう……ここの相性だけ」


 解決すべき点を見つけたのか、ルキフェルがひらりと手を振れば不要と見做された書類が一気に積み重なった。署名や押印が必要な書類に魔力を通すと消えてしまうが、図面や書物に特殊インクは使用されない。そのため遠慮なく魔力を揮いながら、書類を片づけた。


 残った数枚を手元に呼び寄せ、空中に張り出して見比べて指先で書き換える。幾つも手元に試作品のミニチュアを作って爆発させて首をかしげていた。その脇を出来るだけ静かに通り抜けた少女達に、ベールは苦笑いしてソファを勧める。


 遠慮なく腰掛けた彼女達の目に映ったのは、珍しく気崩したラフな服装で背中の翼を出したベールだった。きっちりと軍服やローブを着こなし、長い髪も丁寧に手入れをしている彼の意外な姿に、シトリーが頬を染める。気怠そうな様子が色っぽい。年齢差をすっ飛ばして惚れそうで危険だった。


「大人……」


「やばいわね」


 ひそひそと小声で会話する少女達を、翡翠竜が不満そうに尻尾を揺らしながら見上げる。


 わずかに肩が見えるほど着崩れた原因は、膝を借りて眠るお姫様だった。ベールの膝に乗り上げて腰に手を回して抱き着いている。顔は見えないので起きているのか、寝たのか。穏やかな顔でリリスの黒髪を撫でるベールが、顔をあげてルキフェルに声をかけた。


「終わりましたか?」


「あとすこし」


「リリス様のお加減は……」


 恐る恐る声をかけたルーサルカに、ベッドに腰掛けたベールが黒髪を撫でる手を止めた。思わせぶりに頬を撫でれば、ようやくリリスが顔を上げる。抱き着いていたせいで赤くなった頬や鼻先を隠す。それでも両手で覆った指の間からちらりと視線を寄こした。


 もそもそと起き上がり、ぺたんと両足を崩して座る。泣きそうな表情だが、なんとか顔を見せてくれた。行き場を失くした両手がスカートの裾を握って皺を作る。


「リリス様、私達をおそばにおいてくださいますか?」


「うん……いて。出来るだけ近くに、いて」


 半泣きの笑い顔を作った魔王妃の幼い願いは、切実な響きで5人に伝わった。膝をついたイポスが騎士の最敬礼を行うと、4人もそれぞれに跪礼で敬意を示す。


「もう少ししたら、ルシファーに会いに行くわ」


 だからそれまで泣くのを許して。彼の前では泣けないから。


 覚悟を決めたリリスの声にならない願いに、少女達は自分達の涙を堪える。ぎこちないながらも笑みを浮かべた側近の前で、黒髪の魔王妃は細く長い息を吐き出した。

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