1224. 思いがけない機転

 薔薇を散らした風呂も慣れた。昔は面倒くさがり、浄化魔法ですべて済ませていたのが懐かしい。リリスは入浴という行為が楽しいようだ。お風呂に浮かべた薔薇の香りを愛で、美しい花びらの色に目を細めた。彼女のお陰で、ルシファーもだいぶリラックスして過ごすようになっている。


「今日の薔薇は新種なのよ」


「どこら辺が……ああ、この花弁は色変わりするとか」


 前に聞いた新種の情報を口にすれば、リリスは首を振った。違うらしい。浸かった湯船の薔薇を拾い上げ、じっくり観察する。いつもより香りが強い気がした。


「香りが強い?」


「正解。この薔薇は色じゃなく、香りを楽しむんですって。遠くまで香りが届くの。温室内はこの薔薇の香りに満たされて、不思議な感じだったわ」


 どんなに素晴らしかったか、入室時の感動をリリスが説明する。その未熟ながらも一生懸命な表現を汲み取り、ルシファーが頷く。温めの湯がやや寒く感じるまで、穏やかな時間が過ぎた。最後に少し沸かして温まってから出る。


 タオルを巻いたリリスの肌から、ほのかに薔薇の香りがした。たしかに匂いは強い品種のようだ。噎せ返る強い香りではないから、香油にしたら人気が出そうだった。


「ルシファー、ご飯にしましょう」


 明るいオレンジのワンピースに着替えたリリスに手招きされ、ローブを羽織ったルシファーが続く。アデーレが用意した食事の前で、ヤンがどっかりと腹を晒して転がった。座れと言うのだろう。机の高さに合わせたヤンの気遣いに微笑み、声を掛けてからソファ代わりに座る。


 食べさせ合いながらの食事風景はいつも通りで、たまに生肉を口に放り込んでもらうヤンの咀嚼音が響く。骨を砕く物騒な音も、いいアクセントだった。災害の復旧もあと少し、新しい祭りの予定も立てた。特に大きな問題も残っておらず、戸籍など新しい制度が魔族の置かれた現状をよくしてくれるだろう。


 リリスが来てから急展開だな。ずっと停滞していた魔族の歴史や流れが一気に動いた。厄介者と見られていた人族の滅亡、日本人の来訪と召喚魔法陣の消滅、勇者の意味など。新陳代謝が激しい。その上、まだ未開の地である海も残されていた。


「落ち着いたら海へ行こう。新しい魔族と出会えるかも知れないぞ」


 ルシファーの白い指が摘んだ赤い苺を咥え、リリスは頷いた。もぐもぐと噛んで飲み込み、少し口を尖らせる。


「酸っぱかったわ」


「もう季節が変わるから、温泉地から送ってもらおう」


 温泉地は高温多湿の気候を利用し、南国系の果物を育てている。バナナやチョコレート用のカカオはもちろん、リリスの好きな苺も時期を問わず栽培していた。温室はベルゼビュートのお手製で、幻獣の虹蛇が使っている屋根と同じ仕組みだ。


「苺を摘みにいきたいわ」


「屋敷もあるし、新婚旅行先に入れておく」


 新婚旅行という考えは、アスタロトの2番目の妻が広めた。彼女は忙しいアスタロトをどうしても独占したくて、ルシファーに直談判したのだ。その際に口にしたのが、新婚夫婦は絆を深めるために旅行すべきという主張だった。なるほどと納得し、アスタロトに長期休暇を与えたのは懐かしい記憶だ。ちなみに3ヶ月用意したが、1ヶ月で戻ってきてしまい、奥方に睨まれるとばっちりもあった。


「人族の都跡地も見にいきたいし、忙しい旅行にならないよう転移を使うか」


 プランを考えながら呟くと、ぷすっと頬をリリスの指が突いた。


「ルシファー、旅行はゆったりするために行くの。急いで観光地を回るのは違うわ」


「そうなのか。誰に教えてもらったんだ」


「アンナよ」


 仲のいい日本人の名を出され、そういえば出産祝いを用意し損ねていたと思い至った。


「出産祝いを用意しなくちゃならん」


「私が贈っておいたから平気よ」


「それは助かった。何を贈った?」


「育児書。魔王史の棚に並んでたわ」


 あれか、リリスを拾った時にアスタロトが見つけてきた人族の育児書だ。あれならば実用性もあるし、初産だった彼女にぴったりだろう。思いがけないリリスの機転を、ルシファーは黒髪に口付けながら褒めた。

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