784. 助ける? 彼女を、ですか?

 ベルゼビュートの足を掴んだ灰色の触手が海へと引き上げ、当然ながら拘束された彼女も海へと飲み込まれた。その光景自体に驚いたわけではない。大公なのだから自力で逃げろと罵る程度の余裕はあった。問題は触手の母体と思われる、巨大な動物だ。


 魔物……魔族だろうか。浜を埋め尽くすような巨体の持ち主は、霊亀とさして変わらぬ大きな身を揺すった。海水がざぶんと打ち寄せる。光を弾くと白っぽく見えるが、よく見ると濃い灰色をしていた。


「なんでしょうか、あれは」


 呆然と見つめるベールの知る生き物で、該当する種族はなかった。大きな三角の頭が乗った胴体らしき部分があり、一番下の海水に隠れた部分から手足が生えているらしい。目や顔がどこにあるのか、わからなかった。


 つやつやとした肌はぬめりがあるようで、小さな生き物が掴まっても手が離れてしまう。しかし伸ばされた触手らしき手足は二桁に及ぶ本数があり、関節がない自由な動きをした。表面に何か吸盤があるらしく、獲物と見做したベルゼビュートを掴む手は離れない。


 振り回したベルゼビュートの手が、空中から剣を抜いた。以前に名前まで付けた聖剣の刃を突き立てるが、滑って上手く刺さらない。苦戦しながら横に薙いだ動きで、ようやく表面を少し削り落とした。


「大した防御力です」


 あのぬめっとした表面のツヤが曲者です。分析しながらも助けようとしないベールへ、おろおろする魔王軍のドラゴンが進言した。


「あの、ベルゼビュート大公閣下をお助けした方が」


「助ける? 彼女を、ですか? 必要ありません」


 きっぱり切って捨てるベールの表情は変わらない。珍しい生き物を見つけた興味が浮かぶが、幻獣霊王に精霊女王を助ける気などなかった。どうせ自分で切り抜けるだろうし、邪魔をしたと怒られるのも御免蒙りたい。さらに付け加えるなら、この程度で滅びるほどか弱い女性ではなかった。


 世界が滅びても生き残りそうな生命力と本能の持ち主である。放っておいて問題はない。ふむ……せっかくなので、ルキフェルにも見せてあげましょうか。珍しいからきっと喜ぶでしょう。


「ルキフェル」


 召喚の意思を込めて名を呼ぶ。大切に守ってきた愛しい養い子の名を呼び終えて数秒、目の前に魔法陣が浮かんだ。しかし思ったより大きな魔法陣に眉をひそめる。


 もしかして……?


 嫌な予感ほどよく当たるもので、呼ばれたルキフェルの後ろにアスタロト、隣にルシファー、さらに腕を組んだリリス。護衛にイポスと牛サイズのヤンがついてきた。そこで終わりかと思えば、彼らの後ろに4人の少女までいるではないか。


「……城に誰も残らなかったのですか」


 何をしているのか。アスタロトまで一緒になって、城を空にするなど……そうぼやくベールに、アスタロトが苦笑して肩を竦めた。


「問題ありません。サタナキアとエドモンドに預けてきました」


 魔王城を簡単に預けないでください。そう文句を言いかけ、サタナキア公爵令嬢イポスがいるため口を噤んだ。サタナキア公爵の忠義を疑っていると勘違いさせては気の毒だ。魔王軍で将軍職を預かる彼の忠義は、指揮官であるベールもよく知っていた。


「すぐ戻る故、それほど怒るな……で、ベルゼは何をしてるんだ?」


「ベルゼ姉さん、楽しそうね」


 ルシファーとリリスの感想はのんびりしたもので、魔王軍の兵たちも「はあ、楽しそう……ですか」と首をかしげる。緊迫感の欠片もない発言だが、確かに楽しそうにも見える。逆さにぶら下げられたベルゼビュートだが、悲鳴を上げて助けを求める様子はない。


 それどころか左手に抱いた小さな緑の魚に似た子供を確保しつつ、右の聖剣で触手をつついていた。横に斬ったり縦に突き立てたり、あれこれと模索中のようである。倒し方でも研究しているのか。そう考えたルシファーの予想は半分ほど当たっていた。


 実際のところ、彼女はぬめる触手もどきの手足を切り裂く方法を試していたのだ。最終的に水と風と土の魔法はまったく効果がないとわかった。現在試しているのは炎で、効かなければ雷を落とすつもりなのだが……。


「ベルゼ、雷は危険だぞ」


 海水も水も同じで、濡れた状態で雷魔法を使うと感電する。それを防ぐ結界を用意してから使用するのが常識だが、夢中で遊んでいれば失念することもある。そう考えて注意したルシファーだが、少々遅かった。

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