621. 記憶がなくとも
記憶を取り戻したいと口にした主君に、首を横に振る。ルキフェルがかつて試した魔法陣も、効果はなかった。もしまた失敗して、過去の獣人のように追加で記憶をなくせば、取り返しがつかないのだ。
「そうか……」
「残念ですが」
アスタロトだとて、記憶が戻るなら戻して欲しかった。しかし苦しんでいる当事者を責めて
「取り急ぎ、陛下にご確認いただきたい案件がいくつかございます。今年は即位記念祭があり、魔王妃の正式な公表を兼ねております。決裁が溜まっておりますので、対応をお願いします」
「わかった。ならば彼女が目覚めるまで、この部屋で書類整理を行う」
「かしこまりました。手配いたします」
お披露目ではなく、公表と口にした側近はあっさり了承した。準備のために2人きりになった部屋で、ルシファーは状況確認を始める。
この部屋で執務を行うことを、アスタロトは簡単に許した。ルシファーの知るアスタロトなら、執務室まで移動しろと注意しただろう。この子を気にかけるルシファーの気持ちを、先読みして動いた。元から察しのいい男だが、この気遣いは失くした記憶の影響だと考えるのが自然だ。
それにこの子への態度も柔らかい。黒髪を手櫛で梳いてベッドの上に置いた。触れてみたくて、そっと頬をなぞる。しっとりと濡れた肌は、泣いたのか?
横たわる少女は、リリス姫と呼ばれていた。姫の敬称は、魔王妃となる子だから与えられたはず。
お披露目ならば、魔王妃となるこの子はまだ民に名が知られていない。しかし公表と表現したのなら、すでに彼女の存在は魔族に知られているのだ。その上で、公式発表として扱うと言った。この子についてきた金髪の護衛は、サタナキアの一族か。扉の外で守る彼女も、先ほどこの子を心配した少女たちも、この子の専属なのだろう。
これだけの信頼関係を築くなら、それなりに長い時間一緒に過ごしたはずだった。しかし見覚えはない。記憶がないのに、相手だけ自分を知っている――その異常さに怖さを覚えた。
これが真実だと囁かれたら、今の自分に確かめる記憶はない。照合する記憶がないなら、嘘でも断罪すらできずに、操られる可能性を示唆していた。
今の状況だって、アスタロトが嘘をついていたら操られたのと同じだ。だが不思議と、この子が自分の妻となる存在だと聞いて、すんなり受け入れた。
綺麗な黒髪も、白い肌も、手にするりと馴染む。ずっと触れていたい気がした。だからリリスと呼ばれる子が、オレにとって大切なだのだと理解できた。
記憶がなくとも体は覚えている。ならば、この子を泣かせたくないと騒ぐ心も、記憶のあるオレの本心だろう。
「ん、……パパ」
「……なん、……え?」
とっさに返事しようとした自分に驚き、答えかけた口を手で覆う。父親であった記憶はないのに、自分を呼んでいると確信した。記憶がなくとも、ルシファーはリリスの父親であり、夫となる恋人なのだ。言葉より如実に示そうとする、無意識の勝ちだった。
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