308. オレがわかるな?

※流血表現があります。

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「オレがわかるな?」


 右手を預けたまま、口元を血で真っ赤に染めた側近に声をかける。左手のデスサイズを消し、伸ばした指で金色の彼の髪を撫でた。膝をついた状態で腕の血を啜っていたアスタロトの瞳が、緩やかに変化していく。縦に裂けた獣の瞳孔が消えて、普段の赤い瞳が数回瞬いた。


 燃え盛る赤黒い炎が急速に収まっていく。消火したというより、幻がかき消えたように一瞬で消失した。焦げた石畳の熱が、陽炎で景色を揺らす。


「へい、か……俺……いえ、私は」


 口の中に残る甘い血の香りと、魔王の白い肌に残る傷と牙の痕に茫然自失のまま視線が彷徨う。何をしたのだ? 傷ついた直後に暴走して、誰よりも大切な魔王を襲ったのか。


 記憶のない時間への恐怖に、ごくりと喉が鳴った。唾液と一緒に飲み込んだ血が甘くて、まるで自分を責めているようだった。震える手で目の前の腕に治癒魔法陣を描く。


 両膝をついた姿勢で座り込み、目の前に立つ主を見上げた。ほっとした顔で穏やかに微笑むルシファーの裾に手を伸ばし、端を額に掲げたあとで接吻ける。


「申し訳、ございません。お手数を……」


「ったく、前にも言っただろ。暴走しそうになったら呼べと」


 気を使ったのだろう。こうなる未来が分かっているから、何とか自分だけで封じようと考えてしまった。暴走した本能とせめぎあう理性が葛藤する時間、第一師団による攻撃を受けたことで、アスタロトの意識は引きずられてしまったのだ。


 解除されたリミッターを掛け直せるなら、そもそも暴走させたりしない。


「はい……」


「アスタロト大公は余の片腕だ。失うわけにいくまい?」


 にやりと笑って魔王の言い分で手を差し伸べる。治癒した腕は、流れた赤が残るだけで傷はなかった。赤い血の痕跡をアスタロトの目の前で消し去る。差し出したままの右腕をひらりと揺らして促した。


「ほら、さっさと手を取れ。もうすぐリリスが起きちまう」


 悪戯っ子の無邪気な顔で振り返ったルシファーの視線を追うと、結界に守られた女騎士イポスが抱くリリスの黒髪が見えた。白い手に迷いながら手を乗せるが、アスタロトは膝をついたまま立ち上がろうとしない。仕方なく手を握らせたまま、疑問を口にしたルシファーは首をかしげた。


「ところで何があった? お前が傷を負うなんて珍しい」


「誠に情けないことですが、油断しました」


 倒された魔獣の皮を剥いで被った人族が近づくのを見落とし、斜め後ろから槍で突かれたのだという。魔獣に対する非道な行いに理性を揺さぶられ、気づけば封印が緩んでいた。近くで戦っていた第一師団の青年に手傷を負わせてしまったと申し訳なさそうに告げる。


 すぐ隣にいた青年の腕を剣で切ったあたりから、記憶が曖昧だった。


「あの青年なら、お前を助けてくれと使者に立ったくらいだ。元気だぞ」


 治してやったしな。けろりと明るい口調で語るルシファーが、握られた手に力を込めた。


「陛下! アスタロトは?!」


 勢い込んで転移したベルゼビュートは、続く言葉が出なかった。血が垂れた石畳に立つ魔王の手を取るアスタロトは、その白い手に縋るような姿勢で跪いている。この場を離れるまで戦闘状態だったのだが、何が起きたらこうなったのか。


「えっと?」


「もう終わったぞ。第一師団の損害は?」


「損失ゼロですが、多少のケガ人はいましたわ」


 避難を命じた第一師団は無事だと知り、ルシファーはアスタロトの手を引いたまま歩き出した。困惑した表情ながら自分から振りほどけないアスタロトが続き、イポスの手前で止まる。


「リリスは狸寝入りかな?」


 くすくす笑いながら指摘すると、もぞもぞ動いたリリスがそっと顔をのぞかせた。

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