772. もうひとつの黒い夢と記憶
「ご相談です」
なぜか翡翠竜が繰り返した。そこで初めてリリスの目がアムドゥスキアスに向けられ、ぽんと手を叩く。
「人形じゃなかったのね」
「リリス様、ひどい」
ううっ……泣き真似をするアムドゥスキアスだが、場を和ませることはできなかった。厳しい顔のレライエに、ぱちくりと瞬いたリリスは後ろを振り返った。温かい背中をくっつけたルシファーに提案する。
「朝食取りながらにしましょう」
「そうだな」
ベリアルを呼んで準備を頼もうとしたルシファーだが、彼は現在出勤できる状態ではないという。別のコボルトに申し訳なさそうな顔をされたので、笑顔で「構わない。面倒をかけるが準備を頼む」と申しつけた。コボルトが尻尾を振りながら調理場へ向かう。
イフリートも寝てたらどうしようか。
あり得ない事態ではない。先に想定して対応を考えるのは、魔王として鍛えられたルシファーの癖だ。さりげなく無視されたアムドゥスキアスが、ぺたぺたと小さな手で婚約者の頬に触れた。
「大丈夫、ライがちゃんとお話すればいいだけだから」
何やら重大な話があるらしい。その内容はすでに翡翠竜が聞いた上で、リリスかルシファーに話した方がいいと判断した。掴めた状況に頷いて、リリスを抱き上げる。促される形でレライエが続いた。立場は逆だが、それぞれに婚約者を抱っこした2組のカップルはソファに座る。
「失礼いたします」
途中で交代したのか、アデーレが入ってきた。大公夫人の時と違い、きっちり結い上げた髪がほつれなく髪飾りで纏められている。お仕着せ姿の侍女長は慣れた様子でワゴンに乗った料理を並べ始めた。豆のスープ、香辛料を効かせた魚のムニエル、サラダ、数種類のパン、果物、紅茶が用意される。
「アデーレ、私はジュースがいいわ」
「はい、ご用意しております」
好みを知り尽くしたアデーレが柑橘系のジュースを置くと、嬉しそうにお礼を言ってストローに口を付けた。ルシファーが紅茶を一口飲むと、ようやく食事が始まる。毒見役の必要ないルシファーが食べ始めることで、他の魔族はようやく手を付けられるのだ。
「ライ、豆のスープがいい」
「自分で食べろ」
あーんをしてサラダを食べさせてもらうリリスを見て、強請ったアムドゥスキアスはすげなく断られて尻尾をだらんと垂らした。哀れなほど落ち込んだ姿に、苦笑いしたレライエが葡萄をひとつ摘まんで口に押し込む。途端に機嫌の直った翡翠の尻尾がゆらゆらと揺れた。
「ライは昨日泳いだでしょう? 朝起きられたのね」
リリスが他愛のない日常会話を向ける。訪ねてきた理由を問わない2人の様子に、少しだけほっとしながらレライエが「はい」と答えた。自分から話があると訪ねたのだが、どう説明したらいいか覚悟が固まっていない。
「アドキス、背中のハゲに海水が染みなかったか?」
揶揄うルシファーに、翡翠竜がふんと鼻を鳴らした。
「そのくらい、結界で防げますから」
「それは立派なことだ」
くすくす忍び笑うリリスの口に、イチゴを運んで押し当てる。ぱくりと噛みついたリリスは、手前にある魚をフォークでルシファーへ運んだ。食べさせあう姿は見た目に仲が良く微笑ましいのだが、アデーレが溜め息をついた。
「陛下、零れております」
ムニエルにした白身魚の汁が垂れた手元を、そっと注意する。浄化魔法で綺麗にするルシファーは、何食わぬ顔で紅茶に口を付けた。アスタロト達がいたら、かなり叱られる状況だ。
「陛下、リリス様。実は……私が見た夢はもうひとつあったのです」
きりがない。待ってくれる優しさに甘えたら、何も言えなくなる。そう気づいたレライエが自分から切り出した。手にしたフォークを置いたリリスと、カップをソーサーに戻したルシファーが向き直る。
ごくりと喉を鳴らしたレライエは、膝の上のアムドゥスキアスの手を指先で弄りながら話し始めた。
「水の中で身体が千切れる夢を見ました。あれは誰かが体験した現実を、追体験したようで……生々しくて恐ろしかった。黒い何かが海にいたのですが、その黒い物を知っています」
「知っている?」
断言したレライエに、リリスは不思議そうに繰り返した。小首をかしげると、鎖がしゃらんと軽い音を立てる。
「私が知っているわけないのですが……あの時の私は誰かの体験をなぞっていました。その
迷いながらも、レライエは己が得た情報に確信があるらしい。それでも告げることを迷ったのだろう。もしただの妄想や夢で、現実と関係なかったら? 周囲を混乱させて間違った結論を導く結果になったら。取り返しがつかないと悩んだはずだ。
婚約者を心配する翡翠竜が、出しゃばりを承知で口にした。
「私が言うよ。レライエが見た夢は――どこかの異世界人の記憶じゃないかな」
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