1144. 帰してよかったの?

 散歩を終えて執務室に戻ると、報告書片手のベルゼビュートと鉢合わせする。最低限の書類を渡して逃げようとする彼女の長い髪を引っ張り、ルシファーは慌てて用件を切り出した。


「書類関連じゃない。だから話を聞け。人族のことだ」


「人族……?」


 繰り返したベルゼビュートが不思議そうな顔をした。種族としての個体数を管理する話は、大公達に任せている。だから魔王が口出しするとは思わなかったらしい。話を聞いてくれそうだと判断し、掴んだピンクの髪から手を離す。指先でくるくると巻き毛を直しながら、彼女は近くのソファの背もたれに寄り掛かった。


 腰掛けると呼ぶほど体重を掛けていないのだろう。


「ベルゼ姉さん、座ったらいいのに」


「嫌よ。またすぐに辺境へ帰りたいんだもの」


 リリスの勧めに首を横に振る。しかしリリスがお茶を出したところで、観念したのか。肩を竦めてソファの座面に腰掛けた。相変わらず布面積の少ないドレスを纏う美女は、お茶に口を付けて表情を和らげる。ハーブの香りが好きなのだろう。


「今日の散歩で人族の襲撃を受けた」


「ちょ! やだ、一大事じゃない!!」


 今回こそ根こそぎ駆除するんだからね! そう叫ぶベルゼビュートへリリスがお菓子を差し出す。つい手が出て焼き菓子を口にしたベルゼビュートの声が止まった。フォローは完璧だ。


「それが少女1人、まともに剣も振るえなかった」


 彼女の口が塞がっている間に情報を伝える。目を見開いたベルゼビュートが、口の中のお菓子をお茶で流した。慌てた様子で口を開く。


「そんなの、どうやってたどり着いたのよ」


「……やはりそう思うか」


 ルシファーは同じ疑問を持ったベルゼビュートに頷く。現在の人族が生息する地域は、海沿いや森の限られた一部だ。魔王城から見て辺境に近い位置から、武器も満足に扱えない少女がどうやって魔の森を抜けたのか。


 魔族の中で温厚で知られるアルラウネなどは植物だ。しかも彼女らは基本的に移動が出来ない植物系の種族だった。同じ土地で生息し続ける彼女らの養分は、誘い込んだ魔物の死骸なのだ。一見ただの植物に見えるアルラウネですら、狩りをする。


 魔獣であるフェンリルの居住地や、エルフの森を抜けてきた可能性は低い。リザードマンやラミアは人族に傷つけられたため、見つけ次第駆除するだろう。ならば、どこを通って到着したのか。そもそも魔王城の正確な位置すらわからないはずだ。


 たまたま迷い込んだにしては、裏庭という場所は奥まっている。魔の森はそれ自体が魔力を持ち、魔物を生み出す温床だった。その森を、戦えない子どもが無傷で通るなど考えられない。だが魔法使いとしての素質もなく、攻撃でも使わなかった。


「魔法の可能性は?」


「あの子の魔力量はほぼゼロだ」


 外見は褐色の肌に黒髪だった。可能性としても、感じられる魔力を測定しても、ここまで転移や浮遊を使う魔力はない。


「……見せてもらうわ」


「悪い、何か気づいたら知らせてくれ」


 地下牢の少女を見て判断する。そう言い置いて出て行ったベルゼビュートを見送り、オレは報告書を作成し始めた。一応襲われた事実は共有しておく必要があるし、あの程度の実力なら魔物でも勝てそうだが……危険を周知するのは義務だ。出来上がった報告書を文官に渡して処理を頼み、お茶を飲むリリスの隣に腰掛けた。


「ねえ、ベルゼ姉さんを帰してよかったの?」


「ん?」


「決算とか、計算がどうとか……先日言ってなかったかしら」


 リリスの指摘に慌てて気配を探るが、すでに地下牢にベルゼビュートはいなかった。もう辺境へ転移したのだろう。やってしまった。経理担当がひょこひょこ現れたのに逃がしたことを悔やむルシファーへ、リリスは笑いながらお茶を差し出した。

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