660. 魔王預かりの種火が発火しました

 種族間の争いは遺恨を残す。どうしたって互いの種族は競い合い、敵視し始めるのが常だった。元から仲の悪い種族なら、ちょっとした切っ掛けで種火が燃え上がる。


 忘れていたわけではないが、魔王預かりとなった騒動がこの場で再燃すると予想した者は、誰もいなかった。それこそ、千手先を読むと謳われる大公アスタロトでさえ……予想外の事態で。


「貴様! シェンロンの誇りを思い知れ」


「ドラゴンを侮る輩に死を!」


 物騒な怒鳴り合いの直後、若者2人が取っ組み合いのケンカを始めた。飲み会ならよくある光景だが、チョコレートに酔う種族は確認されていない。つまり素面で始まったケンカだった。呆れ顔で止めに入るベールだが、ドラゴンが先に巨大ブレスを放つ。


 その先に複数の種族が腰掛けて休むテーブルがあった。巨大な炎がごおおと不吉な音を立てて彼らに迫る。気配を察する能力が高い獣人が、弱い種族を庇って前に立った。その後ろでエルフが結界を編み始める。羽をもつ妖精が小さな魔獣の子を連れて横に飛ぼうとし、間に合わないと諦めて魔獣の子に覆いかぶさった。


 直後、ブレスの炎は彼らを襲う。無慈悲なドラゴンの炎は無関係の魔族に向けられ、振り返った手に魔法陣を用意したルキフェルが、顔色を蒼白にした。


 当事者は外の被害を意に介さず、シェンロンも身をくねらせて尻尾で応戦する。叩いた尻尾を避けたドラゴンの後ろにいたアラクネが吹き飛ばされ、ラミアの子供が泣き叫んだ。祭りを楽しんでいたドラゴンの1匹が羽を広げて、攻撃から幼子を守る。背を焼く痛みに耐えたドラゴンが崩れるように倒れた。


 阿鼻叫喚の状況を作り出した2人はまだ睨み合っている。


「しね!」


「貴様こそ」


 叫んだ彼らを、大きな魔力が圧し潰した。魔法陣は光らず、魔法の原則も存在しない。ただただ、圧倒的なまでの魔力が物質化して叩きつけられた。骨が軋み、肉が潰され、肺から呼吸を奪われる。赤くなった彼らの顔は徐々に青ざめ、最後に白くなった。それでも魔力の塊が緩められることはない。


「双方ともにしね。その愚かな行為の対価を、己の命をもって支払え」


 ルシファーの冷たい声が場を凍り付かせた。魔力による威圧に当てられた子供は失神する者が出る。我に返ったベルゼビュートが結界を張り、アラクネやラミア達を囲い込んだ。見ればあちこちで小さな結界が生まれている。


 ルーサルカは遊んでいた魔獣の子を保護し、ルーシアはファウンテン近くにいた複数の種族を守った。失神した子供を抱き寄せるシトリーは妖精達を後ろに庇う。翡翠竜が作った小型の結界を、レライエがあちこちへ飛ばした。魔族の魔力を終点として、触れた魔族を守る結界が組まれていく。


 見事な連係プレーで魔族のほとんどが結界に守られた。安全が確保されれば、威圧の中に立つ大公や魔王達の動向が気になる。原因となった若いドラゴンと神龍は半分ほどに圧縮されていた。


 純白の髪がゆらりと舞い上がり、水の中を漂うように揺れる。銀の瞳は怒りに彩られ、整った顔に残虐な色を浮かべた魔王は静かに口を開いた。


「余は、そなたらの争いを預かった……気に入らぬなら余に怒りを向ければよい」


 祭りに集まったのは女子供が多い。戦えない種族も多数含まれていた。魔族の中でも名を馳せる強者の種族が、力を揮う場ではない。


 足を踏み出す魔王の衣がゆらゆらと陽炎に似た動きで揺れた。近づくたび、2人への圧力が増していく。硬い鱗を持つ彼らの身はみしみしと嫌な音を立て、限界まで潰された喉は悲鳴や懇願を貼りつかせた。


「陛下、お鎮まりください。彼らは罪を犯しました。裁くは我ら大公の職分にございます」


 誰もが震える威圧の中、ベールはルシファーに進言する。膝をついて衣の裾に唇を押し当てる臣下の言葉に、銀の瞳はゆっくりと獲物から逸らされた。

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