2章 魔王様のお姫様は悪戯ざかり
20. 魔王のポケットマネー
魔王城から赤子の夜泣きが聞こえなくなって1年弱――城の主ルシファーは痛みに顔を歪めていた。
「いててっ、リリス。痛いっ」
白い髪がお気に入りのリリスが無邪気に引っ張る。つい先日もごっそり抜かれそうになり、ルシファーは1歳児の力を甘く見たツケを突きつけられた。やっとの思いで取り返した髪だが、そもそも赤子のときから髪であやした自分が悪いのだと彼は気付いていない。
リリスにとって、白い髪は遊び道具なのだ。ベビーメリーと同等に扱われてきた純白の飾りに、リリスは今日も夢中だった。
「あばぁ……」
まだ人語と呼ぶには獣に近い発声を繰り返し、大きな赤い瞳をきらきら輝かせて次の獲物に手を伸ばす。執務机の上に置かれたインク瓶だ。隣に置いたペンが刺さると危ないと回避したルシファーの手をすり抜け、リリスの指が瓶に突っ込まれた。
「ああ! ダメ、舐めるなっ!」
大声で叱られたリリスがびくりと肩を震わせ、見る間に目に涙を浮かべる。慌てて抱き上げてあやしながら、笑顔を向けた。
「危ないぞ、リリス。お手手が汚れちゃっただろ……みせてご覧」
差し込んだ右手の指2本を確認すると、予想外に綺麗だった。黒いインクの跡が多少残っているが、真っ黒ではない。ほっと安心して抱き締めるルシファーは、涙目の眦に唇を寄せた。ちゅっと音を立ててキスしてから、腕の中の愛し子に声をかける。
「泣かなくていいぞ、大声出したパパが悪かったな」
「うー」
頬をすり寄せると、リリスはすぐに表情を変えて首に抱きつく。まだ身体が小さく手足が短いので、首の後ろまで手が回らないのが逆に可愛い。頬を緩めたルシファーが物音に振り返ると、書類を運んできた侍従が目を見開いて動きを止めた。
ここ1年、親バカを遺憾なく発揮するルシファーの姿は見慣れたはずだ。何を硬直しているのか首をかしげると、侍従のベリアルが震えながら指差した。
「へ、陛下……お髪やお召し物が……」
人を指差しちゃいけないぞと呟きながら、身だしなみを確認するために鏡を呼び出す。目の前にくるりと指先で輪を描いて作った鏡に写るのは可愛いリリスと、なぜか髪や服に黒いシミをつけた自分の姿だった。
「ん?」
「陛下、失礼いたします。こちらの書類にサインを………はぁああ?!」
署名を求めるベールの声が裏返って響き渡る。目を大きく見開いて驚きを表すリリスの愛らしさに頬を緩めながら、自分の髪を引っ張って確認してみた。
ベトベトする液体がついた指で髪を引き寄せ、よく観察する。ちょっと匂いも確認した結果、液体の正体は黒インクだと判明した。墨独特の臭いに、顔を顰める。
「すぐに洗ってください」
「魔法でやるからいいよ」
面倒そうに言い放ったルシファーが、浄化魔法を使用する。ついでにリリスも綺麗になるので、一石二鳥だ。彼女の黒髪を撫でながら、ベールの手から書類をひったくった。
「城下町の街道を整備する費用?」
「ええ、先日壊されましたので」
にっこり笑うベールの目は笑っていない。つい先日暴れた魔獣相手に魔法を使った迎撃を行ったルシファーは、街道ごと周囲の家もまとめて吹き飛ばした。その修繕費用の請求書だった。
「えっと……壊れちゃったなら直さないとな」
「はい、壊した方にお支払いいただく予定です」
きっぱりとした部下の言葉に、慌てて確認すると支払人の欄に城の会計担当ではなく、自分の名が記されていた。あとは魔王自身のサインがあれば、すぐに引き出した金で修繕が始まる。
「いや、あれは……経費」
「無理です。なんでもリリス嬢に見せるため魔力を抑えずに攻撃したとか?」
隠していたのになぜバレた……冷や汗が伝うルシファーをよそに、ベールは下線を引いた空欄を示した。必要以上の被害を出した上司へ、部下は詰め寄る。
「ここにご署名を! 陛下」
署名を渋るルシファーからリリスを取り上げたベールが、さらに怖い笑顔を見せるまで……ささやかな抵抗は続いた。
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