1277. 視察が終われば書類の山

 視察が一段落して戻ったルシファーの机は、恐ろしいことに天井まで書類が積まれていた。もちろん嫌がらせである。本当に魔王の決裁が必要な書類は二割前後だった。


「おい、これはっ……何でもないです」


 どう言う事だと文句を言いかけて、目つきの悪い側近達に睨まれて尻すぼみになった。アスタロトとベールは寝ていないのか、美貌に翳りがある。それもまた侍女達に「憂い顔も素敵」と言われる要因なのだが、ルシファーにとっては危険信号だった。


 うっかり逆らうと、書類が部屋中に押し込まれそうだ。否定できない本能の警告に従い、大人しく書類を崩し始めた。指先で風を操り、数段に分けて足元の床に積み直す。それからまだ署名されていない書類を、簡単に分類した。用意された仕分け箱に、部署が違う書類を突っ込む。


 この作業だけで3時間もかかった。その間もアスタロトは、斜め前の席で書類を処理している。ルーサルカがケガをした話は聞いていない。もしそういったトラブル絡みなら、盛大な嫌味とともに騒ぎはもっと拡大しただろう。こんな嫌がらせレベルで落ち着くはずがない。


 ベールに関しては、ルキフェルか? と思うものの、あの瑠璃竜王に何か起きた可能性は……あるか? 仕事し過ぎでオーバーヒートしたとか。以前も倒れたからな。この場に顔を見せないなら、ルキフェル絡み? だがベールがこの部屋に陣取っている意味がわからない。絶対に仕事を放り出して、ルキフェルに付き添うタイプだ。


 悩むものの原因が掴めず、ルシファーは手元の書類に目を落とす。リリスとの結婚式に、家族同伴で参加してもいいか? すればいいじゃないか。虹蛇のお伺いに許可の印を押して左の箱へ。次は予算請求だが、これは却下だ。右の箱へ入れる。


 下から現れたのは、どこからどう読んでもアスタロト宛の書類だった。中央の箱へ投げようとして止まる。目の前にいるんだから渡そう。堂々と歩き、アスタロトの机の端にそっと忍ばせて戻った。


「陛下」


「なっ、いや、だって……オレの書類じゃない!」


「呼んだのは私です」


 ベールだった。ほっとしながら顔を向けると、ぴらりと目の前に書類を置かれた。さっと目を通す。


「技術者への報酬引き上げ要求?」


 内容としては、専門職の技術者への報酬が足りないという、シンプルな苦情だった。金額を確認したが、確かに物価も変化すれば報酬額に反映すべきだ。


「問題ないと思うぞ」


 ベールが指差す場所に署名しかけ、途中で手が止まる。少し上の段に、引き落とし口座が書かれているが、なぜか魔王ルシファーの個人口座だった。半分ほど書いた書類に魔力を流して署名用インクを消す。


「これは書類不備だな」


「残念です、気づかれてしまいましたか」


 どんな嫌がらせだ! むっとしながら次の書類の山を引き寄せ、崩し始めた。夢中になって処理すること2日目の夜……激しい音を立てて執務室の扉が破壊される。


「ちょっと! いつまで仕事してるのよ。ルシファーったら、私を一人で食事させてお風呂に入らせて、挙句に一人で眠らせたのよ?!」


 怒鳴りながら乱入した黒髪のお姫様は、台風の如き勢いでルシファーを掴むと引き摺り出した。追いかけるのも忘れてぽかんと見送り、ベールとアスタロトは顔を見合わせる。


「そろそろ休憩にしましょうか」


「そうですね。ルキフェルやベルゼビュートも呼びましょうか」


 穏やかなお茶の時間を楽しむ部下をよそに、ルシファーはリリスの黒髪を丁寧に洗う。風呂で膝に乗って頬を膨らませたリリスは、振り返って文句を付け加えた。


「仕事は一日6時間までよ! それ以上は許さないんだから」


「わかった、リリスとの時間を優先する」


 穏やかと表現するには一方的なリリスの我が侭だが、ルシファーは幸せそうに微笑んで彼女の頬にキスをする。一緒に浸かった湯船で、薔薇の香りに包まれてうたた寝し、頭の先まで沈んだ魔王を回収したのは、妻で侍女長のアデーレに呼び出されたアスタロトだった。


「もう、陛下への意地悪もほどほどになさいな」


 頭の上がらない妻に叱られながら、吸血鬼王はびしょ濡れの主君をベッドまで運ぶ。少し顔色の悪いルシファーに、聞こえないのを承知で小さく謝罪する。


「許してあげるわ」


 ふふっ、笑うリリスはルシファーの純白の髪を弄りながら、腕の中に潜り込んだ。その後、3日間も眠ったため起きるなり再び書類処理に追われたのは……自業自得かもしれない。

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