936. 目が離せないあの人

 両手を組んで心配顔で覗き込むリリスの後ろで、大公女達は主君の様子を窺う。彼女が何かしらの動きを見せたら、即座に反応できるように。彼女らの主君は魔王ではなく、魔王妃だった。


 リリスを守ることが、最終的に魔王の利益につながると理解している。そんな彼女らの背後をヤンとイポスが守り、警戒を露わにアベルも剣に手をかけた。


 安全が確保された状態を確認し、アスタロトは短剣を取り出す。普段なら愛用の剣を使うのだが、あれは魔力を凝縮した刃だ。結界への侵入で魔力を使い過ぎた今、不調を承知で使う緊急性はなかった。


「リリス様、騒がないでください」


 事前に注意して、短剣を鞘から抜いた。治癒が得意な大公が近づけない状況で、魔王ルシファーに効率よく魔力を吸収させる方法が他にない。ルーサルカやルーシアは治癒に長けているが、魔力の供給は経験が少ない。


 効率よく同質の魔力を注げるリリスは混乱しており、魔王ルシファーも彼女の魔力を奪うことを承知しないだろう。選べる手段は限られた。


「手伝おうか?」


 翡翠竜がひらりとバッグから飛び降りた。てくてくと短い足で歩み寄り、膝をついたアスタロトの隣で止まった。


 横たわる魔王の純白の髪を踏まないよう、小さな前足で持ち上げてから、さらに数歩近づく。


「そうですね、お願いします」


 素直に頷いたアスタロトは、まず自らの手のひらに短剣を滑らせた。軽い動きに見えたが、すぐに音を立てて血が垂れる。それをルシファーに飲ませようと顎に手をかけた。


 わずかに開いた唇に流し込むが、すぐに溢れてしまった。意識がないため、飲み込まないのだ。舌打ちしたアスタロトの赤い手を、リリスが掴んだ。手首をしっかりと掴み、ルシファーの顔と見比べる。


「リリス様?」


「私が飲ませるわ」


 言うが早いか、ぐいっと顔を近づけてルシファーに口付ける。舌を絡めたのか、頭ひとつ分抱き起こしたルシファーの喉が動いた。これならば意識がなくても飲み込もうとするだろう。


 身を起こしたリリスは、アスタロトの手を伝う血を啜った。口の中に溜めると、ルシファーの唇に再び重ねる。舌を使って血を流し込んだ。見ていたアベルが剣から手を離し、しゃがむ。


 ルシファーの後ろへ回り込み、片膝を立てて彼の頭を支えた。リリスでは力が足りず不安定なのだ。


「ん……」


 鼻に抜けるような細い声が漏れた。目を輝かせたリリスが顔をあげ、待っていたアスタロトの血を再び啜る。ドレスも薄化粧した肌も、乱れた黒髪も赤に汚しながら。


 わずかに動くルシファーの喉を、誰もが真剣に見守った。数回繰り返したところで、アスタロトが姿勢を崩した。吸血種にとって血は魔力そのものだ。これ以上の失血は危険だった。


 回復させようとする身体の働きで、意識が薄れる。それを傷口に自ら牙を立てて、なんとか堪えた。少なくともルシファーが目覚めるまで、失神する無様を己に許す気はない。


「ルシファー」


 呼び掛けるリリスの足元に移動した翡翠竜が、落ちた短剣で己を傷つけようとした。瑠璃色のルキフェルほどでなくとも、魔力量の豊富なドラゴンの血は回復を助ける。止めたくて伸ばした手を握るレライエが、心配そうに「アドキス」と名を呼んだ。


 振り返って大丈夫だと笑うアムドゥスキアスが、短剣の刃に触れる直前。


「……ルシファー!? よかっ、た……」


 ほっとしたリリスの声が聞こえた。全員の視線を集める先で、ルシファーが咳き込む。喉に絡む血の味に眉を寄せ、ゆっくりと目が開いた。白い肌も純白の髪も赤に染めたルシファーが、気怠げに身を起こす。支えるアベルが腕を貸した。


「……っ、何が?」


 咄嗟の判断で動いたが、前後の記憶が多少曖昧らしい。ほっとしたアスタロトが膝から崩れ落ち、聞かせる声量でぼやいた。


「ほんっとうに、目が離せませんね」

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