937. 広がる安堵と血の臭い

 目が覚めると、口の中が生臭い。鉄錆た血の味に心当たりはなかった。助け起こしたアスタロトが赤い手で金髪をかき上げ、リリスも両手や口元を血に染めている。


「リリス、ケガを?」


 真っ先に彼女の心配が口をついた。呆れ顔のアスタロトを後回しにしようとしたが、首を横に振ったリリスよりアスタロトの方が重傷だ。ルシファーを支える腕が冷たい。


「結界を解いてください」


 言われるまま、外側の結界を解除していく。臭いや音を遮断していた膜が消えるたび、周囲の惨状が五感を刺激した。そこで記憶が繋がる。空から落ちてきた人族、守ろうとした魔獣……見回す先に魔族の被害はない。ほっとした。


「陛下……ご無事で」


 ほっとした表情のベールは軍服に返り血を浴び、ルキフェルも泣き笑いの顔を赤い手で拭った。安心したら鼻水も出ちゃった、そう誤魔化した青年は、赤黒く変色したローブが重そうだ。


 ようやく自分が倒れた事実に思い至ったルシファーが、肩を落として溜め息をつく。羽を4枚開放したこともあり、多少の無理が利く状態だった。無理をした理由はそれだが、この症状は心当たりがある。引っ張り出す急激な使用に、魔力の供給と調整が間に合わずに起こす貧血のようなものだ。


「よかった……我が君、よかったわ」


 子供のようにぽろぽろ涙を零すベルゼビュートだが、彼女の扇情的なドレスからのぞく手足は血塗れだ。結界の外側に生存したはずの人族は、ほぼ壊滅していた。


 ルシファーが結界に閉じこもったまま意識を失ったため、中に入り込むアスタロト以外は足元の害虫駆除に励んだ。その結果が返り血に汚れた彼らの姿であり、人族の手足が散らばる景色だ。


 恐縮した様子で頭を下げる親子の魔熊に「大丈夫だ」と合図をしてやる。我が子のせいで魔王が倒れたと気にする魔熊を開放してやり、ルシファーは一帯の魔族に浄化をかけた。アスタロトだけ除外しておく。


「……嫌がらせですか?」


「浄化したら怒るくせに」


 軽口を叩き合うことで、互いの安否を確認する主従は苦笑いした。アスタロトは自ら水や風を操って己の手足を綺麗に洗い流す。吸血種にとって浄化の魔法は紙一重だ。主君の気遣いは慣れたものだった。


「悪かった」


「そう思われるなら、注意なさってくださいね」


 しっかり釘を刺され、ルシファーは頷く。腕の中のリリスも浄化で綺麗になり、ルシファーに抱き付いてしゃくり上げた。近づいたベルゼビュートが膝をつき、背中に手を触れる。


「治療しますわ。動かないでくださいね」


「悪いが頼む」


 緩めていなかった小さな穴から大きな魔力を引き出す状態になった身体は、全身が千々に裂かれた痛みをもたらす。昔何度も同じことを繰り返し、彼女に治癒してもらった記憶が蘇った。


「この状態も久しぶりだな」


「本当に。最近は少なかったですもの」


 リリスが生まれて守るようになり、今までと魔力の使い方が変わった。過剰な結界で身を包み、常にリリスを保護する。大量に消費する魔力のために出口を絞らなかった魔力は、太く大きく流されるようになり調整の失敗は減った。


 今回も予想外の事態がなければ、魔力量自体は足りていたのだ。久しぶりのミスが致命傷にならなかったことに、ほっと安堵の息をついた。同時にリリスを泣かせた罪悪感が広がる。


「ごめん、リリス」


「っ、冷たくて……みんな来れなくて、も、ダメかも……って」


 怖かった。直球で感情を叩きつけられ、ぽかぽかと殴るリリスの拳を受ける。しがみ付いて泣く彼女の拳が胸を叩き、やがて解かれて力を失い眠るまで。抱きしめたリリスの黒髪にキスを落としながら抱き締めた。


 安堵の顔を見せたレライエが婚約者を抱き上げ、他の3人も表情を和らげる。彼女らはさりげなく位置を調整し、リリスを守っていた。人族に生き残りがいても対応できるよう、外へ警戒を向ける。


 いつの間にか逞しく成長した大公女や護衛達と、辺りを確認して状況把握に努める側近達に、ルシファーは改めて礼と謝罪を口にした。

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