152. 危険なおままごとの伝道師判明

「お……奥さん、これは何でしょうか?」


 蠢く虫は手のひらサイズの黒光りする艶があるタイプだ。尻尾が鋭い針状になっていた。いやな予感がびしばしするルシファーは、無自覚に出た敬語で首をかしげた。


 後ろのヤンは反射的に逃げようとして、鎖ががちゃんと音を立てる。


「栄養満点ですから、残さないでくださいね」


 にっこり笑うリリスの前で、断るという選択肢がない。助けを求めようと視線を向けると、魔法で温度を遮断したアスタロトはいい笑顔で親指を上げる。見捨てる気満々だった。さっさと白湯らしき熱湯を飲み干す彼は、平然と「ご馳走様でした」と器を返す。


 よく見れば飲んだフリをした彼の口元に、収納空間が開いていた。別空間へ熱湯を流し込む作戦らしい。さすがは魔王の側近として裏で君臨する実力者である。


 さっさと逃げたアスタロトを恨めしげに見送ったところで、ふと思いついてリリスに声をかけた。さりげなく虫入りの皿は横に避ける。


「ところで、奥さん。保育園でも同じ遊びをするのですか?」


「遊びではありませんわよ、あなた」


 おままごとを遊びと言われ、むっと唇を尖らせるリリス。気が逸れた隙にそっと収納空間を開いて皿ごと回収した。ヤンが叫びそうになり、慌てて口を押さえている。


「わかりました」


 そっと皿だけ取り出し、奥さんリリスの前に置く。虫は収納空間へ置いてきたので、これで問題はないはずだ。ほっと一息ついたルシファーの痺れた足に、ちくりと痛みが走った。振り返る彼の目に映ったのは、捨てたはずの虫だった。


 皿ごと収納したときに1匹落ちたのを、ヤンは見ていたのだ。叫びそうになった原因だが、捨てたことがリリスにバレないよう口をつぐんだのが災いした。


『我が君、サソリの針は毒がっ!』


「毒? ああ、オレはそういうの効かないから……え」


 毒は無効化されたのだが、痺れた爪先が痛い。首をかしげながら黒い大蠍スコーピオンを窓から捨てた。刺された指先が腫れている。結界もあるはずなのに傷があるなんておかしい。魔物程度に通過できるほどやわな結界は張らないが……?


 爪先に滲んだ血に気付いて胡坐あぐらをかいた。よく見ると、傷口周辺に魔力の残り香がある。いやな予感に顔がひきつった。


 リリスとオレの魔力は親和性が高かった。同調しようと努力しなくても同化できる。つまり……彼女の魔力を纏ったスコーピオンは、オレの結界を通過できる……?! まあ取り込んでも無効化できるが、痛みの原因は毒じゃなくて単に傷口らしい。


「あなた」


「はい、奥さん」


「今日は終わりにしましょう」


 爪先を心配そうに見つめるリリスが宣言したことで、ようやくおままごとはお開きとなった。治癒の魔法陣を展開して傷口を癒す間、困ったような顔をしたリリスが足にしがみ付く。


「リリス、気にしなくていいぞ」


「パパがケガすると思わなかったんだもん」


 複雑な感情に泣きそうなリリスを抱き上げると、ぎゅっと抱き締めた。強く抱き締めたので、じたばた暴れることなくしがみ付いてくる。背中をとんとん叩いて、少し身体を揺すってやる。


「ごめんね、パパ」


「うん、ところでリリスはおままごとを誰に教わったの?」


「……ベルゼ姉さん」


 あれ? いつから姉さん呼びになったのか。以前は「ベルゼ」だけだったよな。ルシファーは疑問をそのまま声に乗せる。


「姉さんなの?」


「そう呼ぶように言われたの。あと話し方も直したら、きっとパパが喜ぶって」


「へえ……そうか。パパのこと考えてくれてありがとう」

 

 危険なおままごとを教えた犯人ベルゼビュートは、半殺しに……おっと、それはアスタロトとベールに任せるか。きっと彼らも言いたいだろう。オレはリリスに正しいおままごとを教えないと。保育園でちゃんとお友達と安全なおままごとが出来るように手配して……。


 今後の展開を考えながら、ルシファーは絶世の美貌に浮かんだ恐怖の笑みを隠すように、リリスを抱き上げて部屋を出た。


『我が君、鎖……』


 ペット役で首輪と鎖がついたままのヤンが1人、部屋にしょんぼりと残された。

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