9章 遠足ってこんなんだっけ?

106. 膝枕と他愛ない話

 廊下を歩いて私室に入ると、待っていたヤンが身を起こした。心配そうな彼の耳の付け根を掻いてやり、くるんと丸まった毛皮の上に寝転がる。酷く疲れた。こういった騒動は百年に一度くらい起きるが、今回のように身内を傷つけられたのは初めてだ。


 今までルシファーの身内は、大公をはじめとして強者ばかりだった。騒動で悩まされることはあっても、傷つけられる心配は不要なのだ。大きな溜め息がこぼれた。


「パパ……どうしたの?」


 リリスが立ち上がり、毛皮の上をよろよろ歩く。不安定な足元にふらつきながらルシファーの頭の上に移動すると、ぺたんと座り込んだ。それからお膝をたたく。


「このうえに頭乗せると、気持ちいいよ。ミュルミュール先生がしてくれた」


 膝枕のことだろう。実際にルシファーが幼女の腿に頭を乗せたら重いが、魔力で重さを軽減してリリスの望む通りにした。初のリリスの膝枕に気持ちが上向く。かろうじて頭を乗せている程度なのに癒された。


 抱いていた人形を横に置き、得意げな顔のリリスは小さな手でルシファーの頭を撫でる。いつもと逆の光景に、擽ったい気持ちになった。


「凄いな、リリス。パパは気持ちいいぞ」


 手放しで褒めれば、にこにこ笑うリリスがルシファーの額に唇を押し当てる。驚いて目を瞠ったルシファーが起き上がろうとするのを、「まだ、ダメ」とリリスが叱った。


「パパの疲れたの、どっか行くまでネンネして」


 おままごとや遊びの一環として、リリスは他人との関わり方を学んでいる。ずっと腕の中にいた幼子は成長して、やがてこの腕を巣立っていくのだろう。


 あの場で「王妃候補を定めた。これは妃であるリリス本人であっても覆すことは許さぬ」と告げたのは、彼女の意思を捻じ曲げて覆そうとする輩を警戒したため。しかし裏に醜い本音があった。


 将来、リリス本人が嫌だといっても王妃にする――最低の養い親だと思うが、譲る気はない。もちろん、リリス自身が心から拒否すれば考え直すつもりだが……想像するだけで自分が怖くなった。リリスが他の男を好いてオレを捨てたら、正気でいられないかも知れない。


 このまま彼女を監禁して外に出さず、誰にも会わせなければ……他の選択肢がなければ、オレを選んでくれるんじゃないか。狂気がじわりと心にシミを作った。


「リリス、パパは……」


「あのね、パパ。今度遠足あるの」


 楽しそうに話す娘に、不思議と胸が詰まった。何かが満たされて、自然と顔に微笑が浮かぶ。伸ばした手でリリスの頬に触れた。頬を摺り寄せて笑うリリスの無邪気な姿に、穏やかな声で尋ねる。他愛ない話をする今が貴重な時間だと実感した。


「そうか。どこに行くんだ?」


「大きい水たまり! こーんな、すっごい大きいの」


 心当たりがあるのは、アスタロトの領域となった魔王城の北側へ続く街道沿いにある湖だった。距離も遠くないし、彼が許可を出せば遠足の目的地に最適だ。景色がよく、魔物に襲われる危険性もない。森の中である限り、ドライアドのミュルミュールがいれば心配はなかった。


「いいな……パパはお仕事かなぁ」


「パパも一緒、先生が言ってた」


 どうやら親同伴の遠足らしい。貴族の子を多く預る手前、自然とそういう形になったのだろう。これが民間の保育園ならば、共働きの親が多いため親同伴のイベントは承認されづらい。


「じゃあ、アスタロトにお留守番頼もうか」


「うん」


 頷いたリリスの顔を下から眺めながら、ルシファーは先ほどまでささくれていた気持ちがぐのに気付いた。ふわふわした毛玉の上で、愛しい娘の顔を見上げる幸福に頬が緩む。


 大公達は貴族相手に処罰を言い渡している頃だ。彼らに嫌な仕事を押し付ける形になったが、あの場で自分が言い渡せば必要以上に罪を重く受け止める貴族が出るだろう。以前のアスタロトのように、自害も考えかねない。


 王としてこれ以上の処罰は下せなかった。


 魔王の権威を蔑ろにされ、種馬扱いされた屈辱は忘れていない。王妃の地位を狙う浅ましい生き物に大切なリリスを傷つけられた痛みも、まだ胸の奥で疼いていた。きっと命尽きるまで消えることのない傷だ。

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