78. パパの腕に戻っておいで

「魅入られるぞ、アスタロト。ゆっくり視線をそらせ」


「は、はい」


 言われるまま深呼吸して目をそらす。逸らしたくないと悲鳴を上げる心を無視して足元をみれば、術から逃れた精神が疲れを訴えた。強制的に魅了する術は一部の種族に限定される。彼女の片親から受け継がれた能力か。


 突き出した左腕は、ルシファーの利き腕だ。よくみれば、切り裂いた傷が身体中を走っていた。纏っているローブもぼろぼろで、白い肌は血だらけだ。整った顔も切り傷が赤い血を滴らせ、純白の髪も無残に切られていた。


 だらりと垂れた右腕は真っ赤に染まっている。指先も動かさない様子から、派手に損傷したと思われた。しかしルシファーの表情に痛みはなく、ただ心配だけが浮かぶ。


 利き腕の魔力でようやっと抑えるほど膨大な魔力を放出するリリスは、白い翼を広げて涙を零す。暴走した状態なのだろう、赤い瞳に感情はなかった。


 普段の感情豊かな幼子の姿から想像できない。


「大丈夫だ、パパの腕に戻っておいで」


 ルシファーの声に反応したリリスの肩が揺れる。泣きながら右手を口元へ運び、赤く染まった手の爪を噛んだ。真っ赤な瞳の色がすこしだけ和らぐ。


「……パパ、パパっ」


 泣きながら探すリリスの声は、ひどく怯えていた。どうやら、目の前に立つ人物が探し求めるルシファーだと気付かないほど、混乱しているのだ。


 ぽろぽろと涙を零して、真っ赤な瞳が姿を求めてさ迷う。可愛い姿をしているだけに痛々しい。彼女にケガが見当たらないのが唯一の救いだった。


「パパはここだ。ほら……手を伸ばして」


 声に反応して、恐る恐る小さな手が前に差し伸べられた。その手をルシファーの左手が掴む。


 反発する魔力が激しい拒絶を起こした。双方へ跳ね返るはずの逆凪を強制的に押さえ込む。大量に放出されたルシファーの魔力が可視化され、リリスへ向かう逆凪を包み込んだ。


 捻じ曲げた逆凪をすべて我が身に受け止め、力尽きて落ちてくるリリスを抱き締める。ぱちっと乾いた音を立てる雷が周囲に散るが、ただの余波で、これ以上の攻撃はなさそうだ。


「いい子だ、このままお休み。パパが傍にいるから、もう怖くないよ」


 真っ赤な目が伏せられ、涙が滲んだ頬にルシファーがキスを落とす。がくりと膝をついたルシファーだが、落とさないようリリスを抱き締めて離さなかった。膝から崩れたルシファーに駆け寄ったアスタロトが、慌てて背中から支える。


 触れた手がぬるりと滑る。大量の血を流す魔王の姿に顔をしかめた。初代の勇者と戦ったときでさえ、これほど傷つかなかった。ばさりと切り落とされた左側の髪、その切り口は鋭く頬にも深い傷が残る。


「何が起きたのですか?」


 問いかけながらも、状況を半分ほど予想できる。何らかの理由でリリス嬢の魔力が暴発し、それを相殺した勢いで魔王城を破壊した。他者を巻き込まないために魔の森へ彼女ごと転移したのだろう。


「お前もだいたい想像つくだろ」


 疲れた口調を隠しもせず、大きく溜め息を吐いた。背を支えるアスタロトの腕に、ぐったりと身を預ける。


 今は自分の身体を支えるのも辛かった。説明をする余裕なんてない。後回しだと遠まわしに伝えれば、存外甘い部下は膝をついた。背の翼を消したルシファーが、痛みに顔をしかめる。


 右腕と右の翼はしばらく動かせない。ガラスの破片が巡るような激痛が体内を走った。息をするのも苦しい程だ。爆発を強制的に収束させた弊害で、関節という関節が痛んだ。


 目に流れ込む血が気になり、無造作に袖で拭う。その袖や腕もあちこち切れていたため、逆に顔を赤く濡らすだけに終わった。今の状況で魔力を使って治癒を行うのは危険すぎる。後ろで心配している部下を頼って声をかけた。


「悪い。目が沁みるから血を拭いてくれ」


「あっ、はい。失礼します」


 取り出したタオルを水で濡らし、丁寧に拭き取られると気分が明るくなる。全身が引き千切られるような激痛に苛まれても、口元に安堵の笑みが浮かんだ。


「……リリスが無事でよかった」

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