607. その子は誰だ?

 ダンスの練習を終えたリリスを連れて戻った私室で、ルシファーが首をかしげた。見慣れた部屋の入り口で、なぜか躊躇してしまう。ノブを捻ればいい。簡単な操作を行えずに立ち止まった。


 不思議そうなリリスに苦笑いして首を横に振り、ノブを回した直後……魔王の私室が吹き飛んだ。


 ズダーン!!


 派手な爆音と振動が魔王城を揺るがし、続いて私室がある最上階から黒煙が立ち昇る。明らかな異常事態に、侍従のベリアル達が駆けつけた。3階の廊下は煤で黒く汚れて、一番奥にある魔王妃の部屋は跡形もない。リビングを兼ねた間の部屋がかろうじて残り、寝室がある手前側は大きく穴が開いていた。


 ちろちろと炎が踊る状況に、駆けつけたベルゼビュートが青ざめる。攻撃なのか、事故なのか。判断できずに周囲を見回した。巻き込まれたルーサルカが、廊下の隅に蹲っている。獣人系である彼女の耳は人族と同じ形だ。そのため大きすぎる音で耳を壊さずに済んでいた。丸くなって尻尾を抱えた彼女を助けおこす。


「何があったの?」


「……あ、リリス……さまが」


 尋ねたベルゼビュートの声は聞こえていない。爆風で一時的に聴覚が麻痺していた。叩きつけられた体が痛い。しかし爆風で切れた腕で必死に示した先に、少女が横たわっていた。黒髪の彼女を守る形で覆いかぶさった純白の魔王の背に、赤い血が滲んでいる。


 何があったのか詮索するより先に、悲鳴じみたベルゼビュートの声が響いた。


「陛下……っ!? ベール、アスタロト、ルキフェル! 早くっ!」


 召喚の響きに転移したルキフェルとベールが目にしたのは……焼け焦げた魔王城の一部だった。影を使った特殊スキルで、焼け焦げた部屋の前に出現した吸血鬼が息をのむ。


 焦げた臭いが鼻だけでなく、他の感覚を乱した。足元がぐらついて不安定な、まるで酔ったような浮遊感が気持ち悪い。それらを吹き飛ばす勢いで、アスタロトが叫んだ。


「ルシファー様! これはっ」


 大急ぎで駆け寄ったアスタロトは、ベルゼビュートが抱き上げたリリスをすり抜け、ルシファーの口元へ手を当てる。呼吸を確かめてから、抱き上げて階下へ移動した。額に赤い血を滲ませるルシファーに意識はない。執務室のソファに横たえ、汚れた手足や顔をタオルで拭いた。


 顔を上げると、ふらつきながらもベルゼビュートがリリスを助け出していた。城で働く侍従達が吐き気に耐え、ルーサルカやシトリーを救出する。途中で駆けつけたドワーフが手伝い、なんとか無事に階下へ避難した。


 リリスに付き従った少女2人が巻き込まれた形で、残るルーシアとレライエはお茶の支度をしていて無事だった。


 ベールが上階の消火を行い、建物の倒壊を防ぐ魔法陣を描いたルキフェルと一緒に駆けつける頃、ようやくルシファーが目を覚ます。焦点が合わない銀の瞳が周りを見回した。


「……アスタ、ロト? 何が」


 ソファを赤く染めるほどの出血をしたルシファーが、呻いて顔をしかめる。背中を切り裂く傷に、ベルゼビュートが駆け寄って治癒を施した。吸血種のアスタロトは治癒や浄化が不得手だが、精霊であるベルゼビュートは逆に得意としていた。


 傷を癒しながら確認した背中は、白い肌が焼け爛れて痛々しい状態だ。


「ひどい火傷ね」


 身を挺してルシファーが守ったのだろう。白い肌が多少火傷で赤くなったものの、リリスはほぼ無傷だった。治癒しながら、ルキフェルが安心させるように微笑む。


「こっちは無事だよ」


 その言葉に頷いたルシファーだが、何も言わずに目を閉じた。手をかざして治癒を続けるベルゼビュートが、頭部にも傷を見つけて嘆く。


「結界が効かなかったのかしら。頭にもケガをなさってますわ」


 側頭部から流れる血を洗い流したベルゼビュートが傷を確認すると、派手な割に傷口は小さかった。ただ腫れているので強く打った可能性がある。吐き気を訴えていないので心配いらないと、軽い口調で声をかけた。


「姫様が御無事でよかったですわね、陛下」


「……」


 不思議そうに首をかしげたルシファーが、走った痛みに顔をしかめる。感じた違和感に、アスタロトがルシファーを覗き込んだ。


「ルシファー様、いま……なんと?」


 掠れた声で問いただしたアスタロトへ、ルシファーは信じられない一言を放った。


「その子は――誰だ?」

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