608. 失われた時間の価値

 その子は誰だと問うたルシファーは、周囲の反応に首をかしげた。しかしすぐに背中の痛みに顔をしかめる。治癒魔法は対象者の体内魔力の流れを制御して、自己治癒力を高めるものだ。そのため魔力量が多い者が少ない者へ使う場合はスムーズだが、逆は多少の抵抗があり時間がかかる。


 ベルゼビュートは、治癒魔法で薄くなる背中の傷を凝視したまま固まった。中庭へ転移して走ったため乱れた銀髪を整えていたベールが、唖然とした顔で凍り付く。


 まだ目覚めないリリスの前にぺたんと座ったルキフェルが「なんで?」と声をあげた。その声に反応したルシファーが呟く。


「……ルキフェル、なのか? いつ成長したんだ」


 魔力で誰なのか判別した様子のルシファーに、気を取り直したアスタロトが膝をついて視線を合わせた。銀の瞳はまっすぐに見つめ返してくる。部屋を爆破された状況で、ふざけるような人ではない。本気で分からないのだとしたら、何年分の記憶が足りないのか探る必要があった。


 記憶を失う原因は、爆発からリリスを庇った際の頭部のケガだろう。大きくこぶ状に腫れたのだから、どこかに強打したのは間違いなかった。


「頭と背中が痛い」


 むすっとした顔で文句を言うルシファーの様子を見ても、記憶がどこまで消えたのかわからない。ルキフェルの記憶があるのなら、1万5000年以内だと判断できる程度だった。だがリリスが分からないなら、数十年以上の単位で欠損している。


「彼女はわかりますか?」


 手足を拭く布や着替えを用意していたアデーレを手招きしたアスタロトに、ルシファーはきょとんとした顔で言い放った。


「お前のだろう」


「……そうですね」


 混乱させないように頷いた。アデーレが婚約者であった期間が短いことで、記憶の境目が大まかに絞り込まれる。アデーレが妻になって800年程だ。彼女が婚約者であった期間は10年未満……正確な記録は資料を調べればわかる。同じ結論に至ったベールやベルゼビュートも溜め息をついた。


 ルキフェルは不安そうに、まだ目覚めないリリスの黒髪を撫でる。彼女が目覚めたら、自分を忘れたルシファーを見て悲しむだろう。そう思うから眉尻が下がった。悲しそうなルキフェルへ、痛みを押して身を起こしたルシファーが近づく。


「大丈夫か?」


 そっくり同じ質問を返したい気持ちを飲み込み、ルキフェルは小さく頷いた。治癒魔法陣を作り出して、リリスの肌に残る僅かな傷を消していく。ルシファーが身を挺して助けたリリスを見ても、何も思い出す様子はなかった。そのことが悔しくて、哀しくて、唇を噛む。


 あんなに仲が良くて、一緒にいる姿も似合っていたのに……。


「その子は恋人か? 可愛い子だ」


 明らかにルキフェルへかけられた言葉だった。リリスをただの魔族の子供だと思っている発言だ。本当ならルシファーが一番に気遣うのはリリスであって、ルキフェルではない。しかし今のルシファーは


 リリスがまだ目覚めないことに、ルキフェルは心の底からほっとしていた。彼女の知るルシファーと同じ姿と声で、こんな言葉を掛けられたらリリスが傷つくだろう。


「僕、ちょっと……」


 ベールに目配せして、リリスを抱き上げた。困惑顔のアデーレがいそいそとついていく。3人が部屋から出た後、アスタロトはルシファーの手を引いて客間へ案内した。今はリリスと合わせない方がいい。これは大公4人が一致した意見だった。


 傷つけあうと分かっていて、2人を合わせる理由がない。記憶を刺激するとしても、時間をおいて様々な手法を試した後でよかった。


「……ごめんなさい、私……何が起きた、か。よく、理解……できてない」


 ルーサルカが茫然と声を出す。何も言えない側近少女達が俯いて、しばらくすると部屋にすすり泣きが響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る