606. 崩れた空は涙を零す

 ベルゼビュートはすぐ戻ってきた。会計の監査をさっさと終わらせ、ご機嫌で庭の手入れを始める。温室で育てる薔薇は、精霊や妖精系が丹精していた。見事に咲き誇る薔薇は枯れる前にリリスへ献上され、お風呂を彩り香りを誇るアイテムとなる。


 ベールはルキフェルと楽しそうに遊んでいるという。その表現で状況が理解できた。連れていかれた20人はルキフェルが楽しく解体作業を行い、ベールが再び組み立てるのだろう。何度でも……殺してくれと哀願しても続けられる残酷な遊戯だ。


 幻獣霊王であるベールは、鳳凰固有スキルである『生命復元』と『再生』が使える。死んで間もない状態ならば元に戻すことが出来た。もちろん対象者の魔力がベールより少ないことが最低条件だが、魔力量で彼を凌ぐ者など魔王を含め数えるほどしかいない。つまり人族は彼らの玩具と化したわけだ。


 早く飽きればいいが……残酷すぎる場面がリリスの前で繰り広げられなかったことに、ルシファーは安堵の息をついた。愛しい少女に見せたい光景ではない。


 アスタロトは言うに及ばず、死ねないように痛めつけているはずだ。こちらは様子を見に行ってくれと頼んだ魔族すべてに、丁重に辞退されたことから間違いない。逆凪の時も、粉々になってたからな……うっかり勇者の痣絡みで飛んだが、今思えば怖ろしい場面に出くわしたものだ。


 魔獣達は生きたまま獲物を森へ持ち帰ったので、今頃家族が集まって食事中だと思われた。生餌を好む魔狼と共にヤンも森で休んでいる様子だ。さきほど温室の帰りに覗いた中庭に、彼の姿はなかった。


「お天気悪いわね」


 温室でもらってきた薔薇を花瓶に飾るリリスが、窓から外を眺める。隣に並んで外を見回すと、どこか嫌な感じがした。直感に近い、確証はないがもやもやした予感が胸に募る。


 テラスへ続く扉を開いたリリスの黒髪が、湿った風に揺れた。


「……やなかんじ」


 ぽつりと呟いたリリスの声に、ルシファーは「そうだな」と同意を返す。互いに感じているこの予感めいた奇妙な違和感、正体がわからないだけに気持ちが悪かった。何かが歯に挟まったような、肌に見えない何かが張りついた不快感に似ている。


 黒い雲が垂れこめた空は暗く、時折強い風が吹いて森の葉を千切った。台風が近づいているのか。ぽつりと大粒の雨が落ちる。あっという間に景色を白く染めるほどの豪雨となった。湿気が生温い風となって吹き込んでくる。


「濡れますわ」


 後ろのテーブルを片づけていたアデーレが、ぱたんと扉を閉める。ガラス戸を雨粒が叩く耳障りな音がした。肩が冷えたリリスへ上着を羽織らせながら、ソファに落ち着いた時だった。


「今日はダンスの練習をしたいわ」


 リリスが予定変更を告げる。城下町ダークプレイスへ降りての課外学習は、この天気で決行する必要はない。彼女の提案ににっこり笑ったルシファーが手を差し伸べた。


「ダンスパートナーに立候補したいのですが……お姫様、お手をどうぞ」


「ぜひお願いしますわ」


 気取った口調で奇妙な感覚を吹き飛ばすルシファーへ、リリスが笑いながら手を乗せた。連れ立って階下の謁見の間に向かう彼らを見送り、アデーレは慌てて予定変更を伝えに走る。4人の側近少女達とそのパートナーを務める教師を探しに彼女が部屋を開けた後……魔王の私室の扉が音もなく開いて閉じた。

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