807. 厄介事の気配

 リリスがルシファーの袖を引っ張った。屈んだルシファーの耳元に唇を寄せて、小声で囁く。


「ねえ、ルカは好みの人がいなそうよ?」


「そうだな。シトリーだけ置いていくか」


 ひそひそ話をする魔王と魔王妃は頷き合うと、すっと立ち上がった。酒瓶を片手に盛り上がっていた軍魔達が敬礼して立ち上がる。期せずして、座っているのは、シトリーとグシオンだけになった。慌てる2人を制して、軍魔達に座るよう指示する。


「我々は一足先に失礼しよう。デカラビア子爵令息グシオン、君にエリゴス子爵令嬢シトリーを預ける。まだ未成年者だから、門限の夜22時までに魔王城まで送り届けるように。これは魔王としての命令だ」


「かしこまりました」


 敬礼したグシオンに、周囲の軍魔が口笛を吹いたりして囃し立てる。じっと見ていたリリスが、突然口を挟んだ。


「リーは大切なお友達なの、傷つけないでね」


「ああ、そうだ。命令を付け加えておく。絶対に泣かすな」


 魔王からの厳命に、囃し立てていた連中も口を噤んだ。魔王妃の側近として、すでに地位が確立した少女を揶揄うと、後が怖いと気づいたのだ。にっこり笑ったリリスが、念を押すように微笑みを深めた。


「リー、明日の朝は起こしに来てね」


 ひらひら手を振って別れる。シトリーは未婚男性の巣に置き去りにされるというのに、恐怖心はなかった。まず魔族同士は、合意がない性的接触は行わないこと。あれだけ魔王と魔王妃が脅したことによる安心感。目の前にいる青年グシオンに対する好奇心が主な理由だ。


 にこやかに出て行ったリリスは、家の外に出ると溜め息をついた。首をかしげるルシファーへ耳打ちする。


「あの2人、きっと上手くいくわ」


 なぜ今の内容で溜め息をついたのか。尋ねる前に、リリスの視線を追って気づく。カルンと別れてから意識して明るく振る舞うルーサルカが、複雑そうな顔をしていた。


「誰かいたかな」


 他に心当たりの未婚男性を思い浮かべるルシファーだが、難あり男性ばかりだった。ルーサルカは良い子だし、リリスの側近だ。付け加えるなら、アデーレが可愛がる娘であり、アスタロト大公令嬢の肩書もある。変な男と噂になるのも困るだろう。


 うーんと考え込むルシファーは、駆け寄る足音に気付いて顔を右側に向けた。ルーシアとレライエは左後ろに、護衛のヤンは彼女らを守るように盾になる。剣の柄に手をかけ、イポスが数歩前に出た。


 星振祭りの夜は、単独の足音は少ない。男性は集まって女性の訪れを待つし、女性は貴族に先導される習わしだった。既婚者や恋人のいるカップルは、混乱を避けるために家に篭る。魔力の乏しい存在を見極めるように、目を凝らし……見覚えのある姿に目を瞬いた。


「ゲーデか」


「魔王様?」


 警戒し合っていたが、互いに知り合いだと分かり空気が和らぐ。確認された唯一の人狼であるゲーデは、子供のアミーを連れていなかった。


「アミーは一緒じゃないの?」


 リリスが尋ねる。ゲーデは肩を竦めて、来た方角を示した。


「宿で寝ている。ちゃんと声もかけてきた」


 その口ぶりから、何か用事があるように聞こえた。この街に知り合いはいない。それどころか、家族とも絶縁状態と語った彼の態度に、違和感が残る。


「厄介事か」


 疑問ではなく断定するルシファーに、ゲーデは眉をひそめた。その姿に確証を得たルシファーの合図で、イポスが後ろに控える。


「相談する気はないか?」


 無理に聞き出すことはしない。しかし城下町で起きるトラブルは、魔王の管轄だと笑って決断をゲーデに委ねた。

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