120. リリスが助けてあげる
保育園の前で、ルシファーは再び途方にくれていた。拝み倒して『お手伝いさせていただけた』ため、段違いのボタンは直したが、左右逆に履いた靴はそのままにして保育園まで歩いたリリスが、玄関先でごねる。
「いやだ! やなの!!」
だんだんと足を踏み鳴らして感情を高ぶらせるリリスの前にしゃがんだルシファーは、困り顔でリリスに掴まれた髪を取り戻そうとしていた。現在のリリスは保育園も行きたいが、パパが離れるのは嫌という複雑な感情を振り翳す。膝をついてリリスを説得するが、まったく聞いてくれなかった。
「ここはリリスちゃんを置いて、さっさと帰ってください」
あなたがいると余計にごねるので邪魔です。
魔王に対しては不敬な言葉だが、未熟な保護者へのアドバイスをさらりと吐いたミュルミュールは、駄々を捏ねるリリスを後ろから抱き上げた。じたばた手足を振って怒るリリスを慣れた様子で奥へ連れて行くが、髪を掴まれたままのルシファーも一緒に引きずられる。
「リリス、ちょ……痛いっ。パパの髪、痛いから」
「……もうパパいい」
むっとした顔で手を離され、唇を尖らせて不機嫌な娘を見送る。しょんぼりしながら戻ってきたルシファーの襟を引っ掛けて背中に乗せ、ヤンは軽やかな足取りで城門へ向かった。
「我が君、セーレも同じように我が侭な時期がありましたぞ。数ヶ月で元に戻ります」
親として先輩のヤンがとりなす様に説明すると、背中で悲鳴が上がった。
「すうかげつ……そんなに?」
耐えられない、長すぎる、もうだめだ……悲痛な叫びが入り混じったルシファーの悲鳴に、ヤンは驚いて足を止めた。かろうじて城門内に入っていたため、後ろで門が閉じる。
「陛下、いつまで落ち込んでるのですか。仕事が溜まってますよ」
遠足で溜め込んだ書類があると告げるアスタロトに捕獲される。ルシファーのあまりの落ち込みように、城内の侍従達がひそひそと噂を始めた。
奥方となる幼女リリス姫に手を出そうとした陛下が拒絶されたらしい――間違っていないようで、だいぶ間違った情報はまことしやかに城外まで広まっていく。平和な魔族にとって、魔王に関する噂はいつでもウェルカム。城下町ダークプレイスに新たな娯楽を提供していた。
「帰ろう、リリス」
「……うん」
一日中駄々を捏ねて疲れたのか、目を擦りながら抱っこされるリリスにほっとする。大量に積まれた書類をさっさと片付け、やりくりした執務時間の中で育児書を必死に読んだ。多少なりと『イヤイヤ期』について知識を得たのだ。
基本的に『魔の2歳児』といわれる時期に多い症状だが、リリスはもう3歳になった。魔力量が多いため、成長に個体差がでる魔族に分類すると、1歳程度は誤差の範囲だ。そもそも寿命が人族と違うのだから比べようがなかった。
育児書を15冊ほど読み込んだ結果、イヤイヤ期は成長に必要な時期らしい。我が侭を言っているように見えるが、自分がしたいことを上手に相手に伝えられないイライラや、何でも自分でやりたいのにうまく出来ないことへの感情が爆発すると書いてあった。
つまり、ある程度リリスの好きにさせた方がいいのだろう。無理にルシファーが手を出せば、怒って手を弾かれる昨夜の状態に陥るが、彼女の好きにさせたあとで手伝いを申し出るのならば許されるようだ。
先人が貴重な経験と知識を育児書にしてくれて助かったと感謝しながら、ルシファーは幼女を抱っこしてヤンの背中に飛び乗った。
「歩くの!!」
「そっか、一緒にパパも歩いていいか?」
「いや」
気持ちは落ち込むが、これもリリスの成長のため。ぐっと拳を握って我慢して、リリスを下ろしてやる。ぺたぺた音を立てて歩いて数十歩も行くと、リリスは立ち止まった。ルシファーを乗せたヤンも立ち止まる。
「ヤンに乗る」
「はいよ」
しゃがんで両手を差し出す。純白の髪が地面についているが、そんなことお構いなしのルシファーがじっと待つ。手を取ろうか迷うリリスが「いや」と口にする前に提案した。
「パパの手を取ってくれると助かるな~。リリスが助けてくれるといいな~」
「リリスが助けてあげる」
「ありがとう、すごく助かった」
得意げなリリスを抱っこしてヤンの上に乗せると、ルシファーは見えないようにガッツポーズする。その頃の執務室では、アスタロトが大量に付箋を貼った育児書を積んだ執務机の前で溜め息を吐いた。署名を頼んだ書類が見当たらないのだ。
「……どこへ書類を片付けたんでしょうね」(あのバカにも困ったものです)
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