355. 鎖される世界の恐怖

※流血表現があります。

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 リリスの手に、かつてルシファーから譲られた魔法陣が浮かぶ。しかし間に合わない。ならば……! 全身の魔力を込めて飛ぶ。最短距離を誰よりも速く。


「魔王っ! ここで終わりだ」


 矢が届くと確信した少年の声が響き、振り返ったルシファーの動きが止まる。時間がスローモーションのように流れ、慌てて結界を追加して手を伸ばした。それでも間に合わない、そして惨劇は起きた。


「リリス!!」


 魔法陣より早く発動できる魔法で飛んだリリスが、黒いルシファーの背に抱き着く。彼女に気づいて守ろうとしたルシファーの結界が10枚、鏃に次々と砕かれた。伸ばした手の先に、黒い犬が飛び上がる。足元で唸っていたケルベロスの身体を貫き、ルシファーの右腕を傷つけた矢は止まった。


「……っ、パパ」


 見上げるリリスに身体ごと振り返ると、ほっとしたのか。リリスが微笑んで座り込んだ。安心したのだろうと彼女を抱き上げようとしたルシファーは、恐怖に身を竦ませた。


 腕を傷つけた矢が、ない。結界とケルベロスを貫いた矢は勢いが落ちていた。その矢を腕に受けたルシファーは、痛みも忘れて赤く濡れた手をリリスの背に回す。肩甲骨の下あたりに感じた矢の感触に、呼吸が引きつれた。


「リリ、ス…?」


 目を閉じたリリスが荒い呼吸を繰り返す。結界の中で騒ぐ少女達やイポス、ヤンが声を上げるが聞こえなかった。駆け寄ったアスタロトが息を飲み、何かを叫ぶ。その声も聞こえない。腕の中で苦しそうなリリスの呼吸だけが耳に届いた。


 なぜ暗いのだろう。景色が暗くなって、何も見えなくなりそうだ。


「治、して……そうだ、治癒を」


 治癒魔法陣を作り出し、リリスの上に展開する。この場に8枚も翼があるんだ。全部使いつくしても構わない。いざとなれば残る4枚も使えばいい。複数の治癒魔法陣が光っては消える。繰り返される治療に、リリスが深い息をついた。


「……あり、がと」


 小さな小さな声が弱くて、細くて、こみ上げる恐怖に心臓が締め付けられる。


「あの、ね……」


 嫌だ、聞いちゃいけない。言わせたらいけない。膝をついた状態で、上半身を抱き上げた姿勢が苦しいのだろうか。でも寝かせたら背に矢が刺さってしまう。矢を抜いたらいいのか? だが出血がひどくなるかもしれない。


 思考がまとまらず、何をしようとしていたのか。それすら混乱の渦に飲み込まれそうだ。この痛みも傷もオレが受けるはずで、なぜリリスが!? 矢を射た奴を殺してやる! その前に、リリスを助けないと……どうしよう。


「………っ、陛下! ルシファー様!! 結界を!!」


 外から結界を叩くアスタロトの声に、のろのろと顔を上げて頷く。結界を消した途端、音と明るさが戻ってきた。周囲を遮断する結界を無意識に展開したルシファーだが、そのせいで助けの手もすべて拒む状態だったのだ。


「リリス姫はおケガを?」


 膝をついたアスタロトの後ろで、ケルベロスが子供の喉を食い破った。悲鳴を上げる余裕もなく少年は弓を強く掴んだまま目を見開いて命を散らす。矢を射た少年を絶命させて後顧の憂いを断ったケルベロスは、獲物を引きずって戻り、ルシファーの手が届くぎりぎりの距離に蹲った。


 申し訳なさそうに3つの頭を伏せた。本来は死神の鎌であるデスサイズの化身は、生き物でないため死なない。己の身体を盾にしたが止まなかった矢は、主の手を突き抜けて、姫の身体で止まったのだ。


「姫っ、姫……っ! 我が君」


 混乱したヤンに引きずられた魔狼の一部が遠吠えをする。悲し気に響く音をぼんやり聞くルシファーの頬を、アスタロトが叩いた。


「しっかりなさい! あなたの妃でしょう!!」


 淀んだ銀の瞳が目の前の側近に向けられた。本来はリリスを守るはずだった結界の魔法陣は消え、ルーシアとシトリーが卒倒している。ルーサルカは泣き崩れ、レライエは倒れた仲間を抱きとめて動けない。駆け付ける騎士イポスの足音が聞こえた。


「……ア、スタロト。どう……したら? 血が……っ」


 治癒魔法陣を駆使したのに、血が止まらない。ぬるぬると流れて抱き上げた腕を伝って膝を濡らし、大地に沁み込んでいく。震える手で、すこし冷たいリリスの頬に触れた。ぴくりと動く瞼がリリスの生存を示していた。

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