533. 娘の幸せを願う、不器用な父
サタナキア公爵家の跡取りは、ひょろりとした細い少年だった。早くに父親を亡くした彼は、母親に可愛がられて育ったため、剣に触れたこともない。危険だからと刃物を遠ざけ、戦いがない事務職に就くよう母に言い聞かされて育った。もやしのように、力を籠めたら折れてしまいそうな子供。
「今の彼からは想像できないぞ」
くすくす笑うルシファーは、サタナキアが生まれた頃から知っていた。勇敢だった父親が大量発生した魔物を食い止めるため犠牲になったことも、発狂しそうな母親が少年を抱き締めて泣いた日も……すべて覚えている。ルシファーにとって過去は歴史ではなく、己が見聞きした現実だった。
父親の昔を知らないイポスは「信じられない話ですわ」と呟いた。彼女が知る父は、魔王軍の将軍職を預かり、ベール大公指揮下で豪快に剣を振るう人だ。幼い頃から繋いだ手は
「オレはそれでも良かったが」
旦那を失って泣き暮らす前サタナキア公爵夫人を思えば、文官であっても爵位返上であっても構わない。そう思うほど、彼女は悲嘆に暮れていた。そんな女性に残された唯一の息子を奪うほど、ルシファーは非道ではない。
ある日、母親の目を盗んで友人と街へ遊びに出た少年は、質の悪い輩に絡まれる少女を庇った。しかしまったく歯が立たず、こてんぱんに打ち負かされてしまう。視察で街を訪れたルシファーが騒動に気づいたとき、泣きながら男の足に噛みつく少年がいた。
何度も蹴られ、殴られたのだろう。大人しい性格の少年にとって、どれほどの勇気が必要だったのか。助けの手を出そうとしたルシファーの前に飛び出したのは、守られる立場の少女――結った髪は解けて、裂かれた服はぼろぼろだった。
絡んだ輩が少女に何を望んだのか、眉をひそめる状況だ。まだ
「イポス、お前の母だ」
彼女が知らない母親の一面だ。イポスが5歳のお披露目を終えるまえに、サタナキアの妻は亡くなっている。美しく芯が強い女性だった。外見はイポスがそっくり受け継いでいる。金の柔らかな髪と森色の瞳、ミルク色の肌も表情すら似ていた。
「お母様、ですか」
懐かしそうに目を細めたイポスの指が、震えながらカップを掴む。両手で包み込むようにして口元に運び、すこしだけ喉を湿らせて戻した。
「まあ、最終的には2人揃って攫われそうになったから、オレが助けたんだが……」
苦笑いしたルシファーの膝で、リリスが食べ終わったプリンのお代わりを強請る。しかしアデーレに「夕食が食べられなくなります」と注意されて、しょんぼりしながらスプーンと器を返した。髪を撫でたルシファーが、こっそりと陰でチョコレートを手渡す。
気づいたくせにアデーレは見ないフリをし、リリスはチョコを口に詰め込み、パンパンに膨らんだ頬を両手で覆った。隠したつもりなのだろう。どう見ても何か食べたとバレるのだが、もぐもぐと口を動かしながら頬を両手で包む姿はリスのようだ。
「あの事件以来、サタナキアは弱く守られる存在である自分を変えた。愛する少女を守れるようになりたいと、あのベールに師事したときは驚いたぞ」
厳しいベールの訓練を懸命にこなし、少女を守れる強さを手に入れる頃には……少年は立派な青年になっていた。夫と同じ危険な道を選んだ息子を、母親は嘆き叱ったが、最後には認めて誇ったという。
「妻を娶って子が出来て……サタナキアは泣きながら喜んだ。あの強面がぼろぼろ涙を流しながら、名付けを頼みに来た。だが焦って城門に激突してベールに叱られ……懐かしいな」
リリスはようやく頬のチョコレートを飲み込み、満足そうに頬を撫でている。大きな頬袋は縮んだようで、ルシファーが手渡したカップのお茶を飲んで「ぷはっ」と声を上げた。アデーレが呆れ顔で注意する。淑女らしからぬ行動だが、可愛いので見逃して欲しいと言わんばかりのルシファーが庇うと、今度はアデーレの説教が魔王に飛び火した。
しばらく叱られたルシファーが向き直る頃、両親の馴れ初めを知って滲んだ涙を瞬きで隠したイポスが、ひとつ深呼吸する。
「イポスの名は、5つの候補からサタナキアと妻が選んだ。お前が誰より幸せになれるようにと、7日間選びに選んだ名だ。込められた願いを叶えてやれとは言わないが、察してやってくれ」
静かに締めくくったルシファーの声に、美しい騎士は静かに頷いた。
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