1081. 湯量が先か、温度が先か

 結局、呼び戻されたアスタロトが湯の出口を調整してくれたので、問題は一時的に棚上げされた。


「どうして召喚しなかったんです?」


「……思いつかなかった」


 目を逸らす主君の様子に、アスタロトは大まかな事情を察した。おそらく何とかなると思って余計なことをして、喚ぶに呼べない状況を作ったに違いない。人前で叱るわけにもいかないので、この場は飲み込むことにした。あとでしっかり聞き出さなくては。


 見回す限り、露天風呂の破損はなく湯が溢れる以外の異常は見当たらない。ルシファーが事態を隠す間に、リリスが助けを呼びに行ったのだろう。分析するアスタロトから目を逸らし、濡れた服を一瞬で乾かす。べったり貼りついた長い髪も水気を飛ばした。


 リリスは少しカールした毛先が気になって、指先で弄っている。湿気が多い場所や雨の日は、癖毛の特徴が出るリリスを手招きし、魔法陣で乾かした。さらりと手を滑る黒髪を、取り出したブラシで梳かす。嬉しそうにリリスがお礼を口にした。


「ところで陛下」


「な、なんだ?」


「湯の温度が高いと発言されたそうですが、どの程度ですか」


 いたって当たり障りのない普通の質問だったため、ルシファーは胸を撫で下ろす。たしかに駈け寄った大公女達に、危険を知らせるために注意した。


「体感だが、火傷する温度だったぞ」


「湯量が増える前でしょうか、後でしょうか」


「……入浴した時は熱くなかったな」


 嫌な予感がする。アスタロトの口調も質問内容も穏やかすぎて、本能が警告を発していた。だが何が危険なのか判断がつかず、気を付けながらも受け答えを続けるしかない。リリスを抱き寄せて腰に腕を回し、緊急時に逃げられるよう結界と転移魔法の準備をした。


 魔法陣はバレるので使わない。上位者同士の戦いになるほど、魔法陣は使いづらいのが常道だった。


「入ってから、急に熱くなったのなら……大変でしたね」


「あ、ああ。慌ててリリスを出して、すぐに溢れたお湯を押さえたんだが間に合わなくてな」


 アスタロトの目がすっと細くなった。どきっとして、自分の失言を探す。何か尻尾を掴まれる発言があったか? ないよな、ないはずだ。緊張にごくりと喉が鳴った。


「熱くなった直後に、お湯が溢れたんですね?」


 余計な発言は命取りだ。無言で頷く。緊迫した空気に割り込んだのは、後から駆け付けたルーサルカだった。夕方までの休暇を消化し、少し早いが顔を見せたのだ。誰も出迎えがないので入ってきたら、露天風呂で義父が魔王陛下を追い詰めている。


「アスタロト大公閣下、また何かあったんですか」


「ルカですか。出迎えに出られなくてすみません」


「いえ……お義父様。また陛下に意地悪しているんですね」


 愛称で呼ばれたため、ルーサルカの口調が砕けた。呆れたと言いながら、濡れた床を音もなく歩いてリリスの斜め後ろに立つ。


「ルカ、まさかとは思いますが……この私と対立する気ですか」


「大袈裟です、お義父様。私はリリス様の味方です」


「ならば判断してもらいましょう。ルシファー様、湯温を調整しようとして流れを弄りましたね」


 びくりとルシファーの肩が揺れた。それから顔ごと視線をずらす。ローブの裾が濡れるのも気にせず、近づいたアスタロトがルシファーの顎を掴んで視線を合わせた。美形同士が顔を突き合わせる様子に、シトリーやレライエ、グシオンが照れて顔を赤くする。翡翠竜も短い手で顔を覆った。


「目の毒です。えっと、なんか寒いですね」


 湯が減ったから。そんな理由をこじつけるアムドゥスキアスに誰も反論しない。アスタロト大公の眼差しに背筋が凍る思いをしながら、濡れた足から冷える状況のせいだと言い聞かせ肩を震わせた。


「ちがうぞ、湯量を調整しようとしたら熱いのが噴き出し……っ、いや……その」


 犯人は自供し、項垂れた。

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