766. 海を浄化する光

 ――其は豊かな緑の泉、他者の命を食らうもの。世界の核を守るためにのみ、我が身を削るであろう。失われし命を補え。核は新たに輝きを取り戻す。


 命の源たる豊かな魔の森。魔族は彼女から生まれ、彼女へと戻る定め。魔の森が己の身を削るのは、最愛の魔王を守るため。失われた魔力を補えば……魔王は再び微笑んでくれるだろう。


 歌うように訳したアンナが目を閉じた。守るように立つアベルとイザヤは、暗い海を睨みつける。その緊迫感に引きずられ、少女達も不安そうな目を黒い水面へ向けた。


 崖の上から見る海は、どこまでも黒い。空の色に染まらない海水が、不気味な音を立てて打ち寄せた。


「陛下もリリス様も……どうなさるおつもりかしら」


 呟くシトリーの隣で、ルーシアは青ざめた額に浮かんだ汗を拭った。水の精霊族である彼女にとって、この穢れた海は毒に近い。直接的な害はなくとも、近くにあるだけで恐ろしかった。


「カルン?」


 目覚めた子供は紫の瞳を涙で濡らして、ルーサルカを見た。それから迷いながら手を触れ、突き飛ばすようにして彼女から離れる。


「どうしたの? 危ないから、こっちへ……きゃあぁっ!!」


 戻れと言いかけたルーサルカの声が、途中で悲鳴に変わった。汚染された海へ向け、手を振り払った子供が落ちていく。半狂乱のルーサルカが後を追って飛び降りようとし、慌てたシトリーがルーサルカを風で押さえつけた。暴れる彼女の耳に、ぱちゃんと水音が響く。


「いやっ! 嘘でしょう、こんなの嫌よ!」


 髪を振り乱して泣きながら助けに行こうとするルーサルカに、気づいたアスタロトが眉をひそめる。ちらりとルシファーに目くばせし、頷いたのを確認して飛んだ。見える近距離の転移に魔法陣を必要としない男は、義娘の腕を掴んで引き寄せる。しがみついて泣く彼女の震えを受け止め、黙って抱きしめた。


「カルンが飛び降りたのですか」


 誰かを助けにやるべきか、魔族とはいえ海の種族だから心配いらないと考えていいのか。迷うベールの声に、ルキフェルが答えた。


「海に殉じる気じゃないかな。でもルシファーの浄化が間に合いそう」


 ルキフェルの水色の瞳が映すのは、森から集まった小さな光だった。大量とは呼べない魔力は、ルシファーを慕う小鳥のように周囲を舞う。美しい光景だ。


「蛍、みたい」


 アンナがぽつりと呟いた。手のひらに乗る程度の光が無数に集まり、光を連れたルシファーが海辺に近づく。止めようとしたベールの袖を握るルキフェルが、首を横に振った。


「リリス、手伝ってくれ」


「……うんっ」


 頼られたのが嬉しい少女は、笑顔でルシファーの手を握る。リリスを下すと、2人は並んで海砂に膝をついた。砂浜に打ち寄せる波が彼らの足元を濡らす。結界を消した魔王と魔王妃は、重ねた手を海水に浸した。


 周囲を漂う光がひとつずつ舞い降りて、海水の中に溶けていく。光ったまま波に飲まれた魔力が、きらきら光りながら広がった。波打ち際から徐々に波の色が透明になっていく。空の青さを写した海水が美しい色を取り戻した。


 光が消えるたび、新しい光が森から供給される。繰り返す幻想的な光景にざわめく魔族の中から、声が上がった。


「おれらも、何か出来るはずだ」


「魔力なら出せる」


 ルシファーを真似て、数人の軍人が海辺に手を浸した。流れ出す魔力が海を浄化する。ある程度魔力を供給すると、後ろの魔族と交代する。ドラゴンも獣人も種族関係なく、彼らは順番に海へ魔力を補った。

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