420. 召喚者を守る法律
ずずっと鼻を啜ると、足元から触手に似た何かが寄ってきて、白いハンカチを差し出してくれた。この世界に来たばかりの頃なら悲鳴を上げて逃げまわっただろうけど、今は彼らが優しいと知っている。森の中で迷ったとき、そっと行き先を示してくれたのは枝に似た触手だった。
他の貴族の頭上を越えて枝を伸ばしたドライアドが、ぶつからないように枝を戻す。
「ありがとうございます……ずっ」
受け取ったハンカチで顔を拭く。あとで洗って返そうと考える余裕があることに、アベルは気づいていなかった。誰かに話を聞いてもらえて、否定されなかったことに安心したのだろう。
「先日の襲撃の自称勇者は貴族の息子ですか。塔は赤い屋根だったと証言が取れていますので、仕掛けたのはガブリエラ国だと判明しています」
補足したベールの声に、一部の魔族から「ガブリエラ国に制裁を」と強い意見があがる。それに頷いたルシファーが証言者アベルに問うた。
「辛い思いをさせた。願いがあれば口にするがよい」
叶えられる願いならば応じると匂わせたルシファーの声は温かく、しゃくりあげるアベルは呼吸を整えてその場に膝をついた。
「お、お願いします。あの女の子を助けて、ください。泣きながら…引きずられてって、どうなったか、心配で……もう帰りたい」
少女も心配だが、最後の一言が本音だった。知らない世界に放り出されて、唯一同じ世界を知る子と離され、戦いを強要される。奴隷のような扱いに精神は崩壊寸前だった。だから魔王を殺しに行けと放り出されても心は冷めていたのだ。凍り付いた感情が蘇ったのは、ルキフェルに預けられてからだった。
怖がるアベルに気を使ったのか、侍女を含めて誰も勝手に部屋に入ってこない。安心して眠れる清潔な部屋で、きちんとした食事を食べたことで気持ちはようやく落ち着いた。身体が追い詰められると、精神も病んでしまう。
「わかった。その願いを叶えてやろう」
「叶えてやろぉ」
幼女が繰り返したことで、場が和む。緊迫した空気が柔らかくなり、魔族の間から「可愛い」や「リリス様らしい」と聞こえてきた。顔を上げると、幼女は魔王に「しー」と黙ってるようにお願いされている。泣いてみっともない顔で吹き出す。
「では証言を踏まえ、裁決を取ります」
アスタロトが場の引き締めにかかる。ぴりっとした空気が広間を覆い、静まった音がシンと耳に痛いほどだった。
「新しい法を定めます」
そこから淡々と新法を読み上げる。
『異世界からの召喚を全面的に禁止。研究目的であっても例外は認められない。召喚を行った国や種族は重二等レベルの処罰対象となる。また召喚された被害者に関しては、帰還できるよう全力を尽くす。当人の意思でこの世界に残る場合は、男爵位の生活と地位を保証する。この法は発効前にさかのぼって適用され、すべての種族が適用対象である』
男爵位とした理由は、ある程度の自由を残すためだ。地位を上げるのは簡単だが、上位貴族には義務も伴う。召喚された者に実力があれば別だが、今回のように魔法も剣もそこそこレベルの可能性があるのだ。重い責任を伴う地位を与えるのは逆効果だった。
「異論がある方は挙手してください」
静まり返った広間に手は挙がらなかった。
「新法は異議なく制定されました。陛下、署名をお願いいたします」
差し出された書類に目を通し、空中から取り出したペンでサインを施す。いつもならば書類には印章で押印するが、法律の制定は別の手続きがあった。印章ではなく、魔王と側近の血判が必要となる。
風の刃で左手の親指を切ったルシファーが最初に押し、書類をアスタロトに回す。順番に大公が血判を押し終えるのを待って、ルキフェルがアベルに手を貸して立たせた。
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