552. 無知ほど愚かな逃げ道はない

※流血表現があります。

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 呼応した魔族の咆哮が空を駆け抜け、大地を揺らす。穏やかな時間を過ごすタブリス国の都は、突然の襲撃に騒然としていた。突然攻めてきた魔族の大群が、月光を覆うほど空に広がり、足の踏み場が残らぬほど大地を占める。


「逃げろ」


「こっちだ」


 騎士や冒険者が必死に誘導する。王族の支配から逃れたこの国の柱は宗教だった。女神の生まれ変わりに選ばれた聖巫女みこを頂点とした国に城はないが、立派な大聖堂が立つ。庭師が丹精した庭と演説用の広場は、あっという間に救いを求める人々で埋め尽くされた。


 すでに吸血鬼の洗礼を受けた者もおり、血塗れで運び込まれる兵士が広場に並べられる。女神の力を持つ聖巫女の奇跡を求め、信者が祈りを捧げていた。


「……逃げられないの?」


「都は包囲されています」


 地下水路を含め、すべての逃げ道が塞がれた。魔族は愚かで醜く、野蛮な種族だと教えられて育った聖巫女の口から悲鳴じみた絶叫がほとばしった。


「なぜ? 私は女神の生まれ変わりなのよ。野蛮な未開の種族が、私の逃げ道を塞ぐなんて――」


 あり得ない! 続けられるはずの言葉は、美しくも恐ろしい魔族の訪れで喉の奥に張りついた。聖堂の奥に逃げ込んだ聖巫女の頭上、空から光を取り込むガラス細工の窓が砕ける。悲鳴を上げて頭を庇う彼女を、周囲の聖職者が身を盾にして守った。


 降り注ぐガラスに傷ついた神官達が蹲る中、ばさりと黒い翼を広げた純白の青年が降り立つ。神の降臨に似た幻想的な空気を、青年は自ら破った。


「アスタロト、参れ」


 彼が最初に口にしたのは、配下の名だった。青年の顔は見惚れるほど美しく、不快そうに寄せられた眉や銀色の冷たい眼差しに、聖巫女は甘い吐息を漏らす。これほど美しく鋭い存在を知らなかった。この人の隣に立ちたい。声を掛けられ、いつくししまれたいと願った。


 女神と同等にあがめられた彼女にとって、叶わない願いはない。人であっても物であっても、すべて手に入れてきた。そんな籠の中で大切に育てられた鳥にとって、外から訪れた爪がどれほど鋭く、容赦なく突き立てられるか。想像もつかなかっただろう。


「お呼びですか」


 天に立つ純白の美形に膝をついて現れた者は、金髪を揺らす黒衣の青年だった。柘榴ざくろの赤瞳の彼は鉄錆てつさびた赤い血を纏いつかせ、今まで見た誰より優雅に礼をする。


「片付けよ」


 その命令の意味がわからず、聖巫女は目を見開く。了承を示した金髪の青年が、整った顔に笑みを浮かべた。冴え冴えする、どこまでも澄んだ冬の空気に似た彼は聖堂の床に舞い降りる。背に広げた羽は魔族の証だ。気づいて怯える聖巫女の前で、神官や側仕えが殺されていく。


 虹色の刃が振るわれるたび、鉄錆びた赤い血が飛び散って聖巫女の衣を汚した。ふっと緊張の糸が切れた彼女が崩れるように失神する。


「この程度の血で意識を失うなど……な方だ」


 戦いの場で意識を手放すことは、死とイコールだ。そんな簡単なルールさえ知らず、気を失える女はさぞ温い育ち方をしたのだろう。髪飾りは鳳凰の尾羽、上着にされた魔熊の毛皮、ベルトに至っては蛇女族の革が使われていた。


 この女は知らないのだろう。ラミアから生きたまま皮を剥いだ冒険者の手柄によって得た革を、そのベルトとして腰に巻いたこと。数少ない鳳凰から数本の尾羽を得るために彼らを貫いた氷の矢があったことも……奪われた子熊を盾にされ、無残に命を散らした母熊の嘆きも。


 暗い感情をすべて込めたアスタロトの声は地を這い、嫌味のように聞こえる丁寧な言葉で揶揄やゆする男の剣から、ぽたりと赤が滴る。奪われた命が床を汚し、残された神官の恐怖を煽った。


 国の要であり、信仰する女神の代理人たる聖巫女を守ろうと立ちはだかる騎士と神官へ、アスタロトが剣先を向ける。足元に倒れる人族のほとんどが、まだ生きていた。致命傷を与えながら、即死できないようにする。彼ならではの報復だった。


 魔族が受けた痛みや傷を返す戦いならば、即死させるのは親切すぎる。苦しんで、のたうって、縋って、助からぬ絶望に染め抜かれて死ねばいい。優しい主の心を凍らせ、王の慈悲を無碍むげにした人族にかける慈悲はなかった。


「パパ」


 ずっと口を噤んでいたリリスが、自分を抱き締める男を呼ぶ。優しい幼女は目の前の女を助けろと望むのか、それとも……? ぬるりと血で滑る柄を拭いながら、アスタロトは2人の動向を見守った。

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