611. 笑わないと無理

 大きな赤い瞳は潤んでいて、無理やり笑顔を作った口角が小刻みに震えていた。先ほど整えた黒髪が、白いシーツの上に散らばる様は、彼女の混乱した心境を表している。


 ああ――リリスは知っているんだ。


 それはルキフェルの中に、真実となってじわりと染みこむ。


「ロキちゃんの、言う通りね……笑わないと無理」


 意識を保っていられない。声にならない悲鳴が聞こえ、ルキフェルは裾を掴む手を握って額に押し当て、そのまま床に膝をついた。何かを堪えるように震える肩へ、リリスの空いた残りの手が触れる。それも一緒に握って額に押し当てたルキフェルが、大きく息を吐いた。


「知ってるの?」


「ええ、起きて、たの」


 本当はとっくに目が覚めていた。だってルシファーが身を挺して庇ってくれて、ほとんど傷がなかったのだから。ほんのわずかの小さな傷も、ルキフェルが治してくれた。周りが気を使って騒ぐほど、起きていると言い出し辛くなって……知らない人を見る目を向けられる恐怖に、寝たふりをやめられず逃げた。


「ごめんなさい」


 謝った直後、堪えていた涙が零れ落ちた。こんな場面で泣くなんて、狡い。だから嫌なのに……同情を引くみたいで醜いのに。我慢しようとして顔を反対へ背けた。両手をルキフェルに握られて動かせないから、零れる涙を拭うことも出来ない。


 リリスの手を握って膝をついたルキフェルごと、ベールが2人を抱き寄せた。ベッドの端に腰掛け、普段なら「失礼します」と声をかける几帳面な男が、何も言わずにリリスを起こす。そのまま顔を隠す形で胸元に引き寄せた。膝に顔を埋めたルキフェルの水色の髪を撫でながら、ベールは動かない。


 不幸な事故か事件か。どちらにしても子供達に罪はない。濃色の生地を皺になるほど掴んで涙を零すリリスも、しがみ付いて嗚咽を噛み殺すルキフェルも……ただただ哀れで愛おしかった。


 どのくらいそうしていたのか。窓の外の日差しが陰り始めた頃、アスタロトが部屋を訪ねてきた。泣き疲れて眠った2人の姿に、金髪をかき上げた同僚は複雑そうな顔で切り出す。


「……少々、ややこしい話になりそうです」


 子供達を落ち着かせる間に、彼は必死に何かを探していたようだ。袖に古いインクの跡が残っているが、本人は気づいていない。大量の古い文献を手で追ったのだろう。よく見れば小指も全体に薄く汚れていた。


 ふっと表情を和らげて魔法陣をひとつ描き、アスタロトへ差し出す。


「指と袖、汚れていますよ」


「ああ。本当ですね、ありがとうございます」


 浄化の魔法陣は身体の汚れを取ったり、散らした部屋の掃除に使う者も多い。大多数の魔族が使用できる属性だが、ヴァンパイア等一部の種族は己自身を害するため使用できなかった。以前に人族がゾンビを大量作成した際、ルキフェルが改良した新作魔法陣ならば、部位を特定して浄化ができる。コピーして渡した魔法陣で、袖の汚れを拭いながらアスタロトが表情を和らげた。


 この場にいないベルゼビュートは、魔王の剣を自称するだけあって忠誠心厚い女だ。このような状況で護衛を任せるには最適だった。アスタロトもその点について、彼女を疑ったことがない。


「……話したのですか?」


 抱き着いたまま眠るリリスの頬に涙の跡をみつけ、アスタロトがわずかに眉を寄せた。複雑な感情の入り混じった声色が、リリスへの気遣いを滲ませる。


「起きていたそうです」


 付き合いの長い2人は主語や面倒な長文は不要だ。リリスに話したのかと咎める口調だったアスタロトは、彼女自身が起きて聞いてたという答えに青ざめた。

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