658. 祭りの前の静けさ

「ルシファーに朝ご飯を運びましょう」


 支度の終わったリリスは、イポスとアデーレを連れて部屋を出る。ひらひらとドレスを摘んで歩く彼女に、周囲から声がかかった。城に仕える侍従である魔犬族を始めとし、エルフや吸血種、様々な種族とすれ違うたびに手を振る。子供の頃から愛想がいいリリスは、どの種族にも差別意識がなかった。


 整った顔に笑みを浮かべ、誰でも区別なく手を振ってくれる。魔王に匹敵する白い肌をもつ実力者であり、魔族女性最高位である魔王妃候補でもある。魔王ルシファーと同じように、貴族の位や魔力量に関係なく声をかける少女は人気が高かった。


 それだけ魔力量による格差が重視されてきた魔族において、ルシファーやリリスのような考え方は異質だった。しかし強者こそ世界の理である魔族にとって、上位者の言動に異議を唱える方法はひとつ。実力をもって屈服させるという高いハードルが存在した。そのためリリスの無邪気で無防備な行動が咎められることはない。


「おはようございます、リリス様」


 廊下の途中でルーサルカが合流する。ルーシアやシトリーも加わり、中庭の手前で翡翠竜を抱っこしたレライエが駆け寄った。全員着飾っているが、今日はもてなす側なので、動きを妨げないよう心がけている。ドレス姿だがノースリーブや5分袖で腕まくりが必要ない恰好、髪は結ったり編んだりして工夫していた。


「良いお天気で安心したわ」


 チョコレートの香りが漂う中庭は、巨大ファウンテンが真ん中にそびえ立つ。周囲に結界を張って物理的に守られた塔のような建築物を回り込み、お姫様の行列は中庭を横断した。


 最短距離で戻るべく、庭の方から魔力を使ってテラス経由で部屋に戻ったルシファーは、最愛のリリスの姿が部屋に見えないことに肩を落とす。すぐに魔力を探って、大急ぎで追いかけた。


 中庭の外れにある大木の下で、お姫様は朝食のスコーンやサンドウィッチが並んだ籠を置く。アデーレが用意したシートに座り、お茶を注ぐイポスからカップを受け取った。中庭が居住地となったフェンリルが駆け寄ると、心得たアデーレが追加の敷物を広げる。


 ごろんと円を描いたヤンの尻尾が控えめに振られた。食べ物があるので、あまり大きく振らないのだ。気遣いが出来るフェンリルを、リリスの白い手が優しく撫でた。


「偉いわ、ヤン。ご飯は生肉でいいの?」


「はい。姫」


 アデーレが追加注文を伝えに下がると、ヤンをソファにしたリリスが毛皮に埋もれた。灰色の毛は柔らかく、狼のごわごわした硬さがない。


「リリス、ここにいたのか」


 駆けつけた純白の魔王へ、美しく装ったリリスは手を差し出す。恭しく受けて微笑んだルシファーがその手の甲に唇を押し当てた。


「ルシファー、さっきの騒動は終わったの?」


「ああ、一段落した」


 正確には一段落させた、または預かって処理を後回しにしたのだが、ルシファーは笑顔で肯定した。ヤンに朝の挨拶をして、リリスの隣に座る。ヤンの尻尾がくるりと2人近づけた。


 香りのいいハーブティを楽しみながら、用意された朝食を口に運ぶ。朝から叩き起こされる事態になったが、それだけ民が祭りを楽しみにしてくれたのだろう。好意的に捉えたルシファーは、無理やり起こされた状況を苦笑いで流す。この鷹揚さは、リリスにもしっかり受け継がれた。


「ケガしてる子はいなかった?」


「ケガか……鱗を剥がれた竜や噛まれた獣人がいたが、アスタロトが治療している。ベールもいたから大丈夫だろう」


 治癒魔法に関しては、大公の中でベールが一番優れている。幻獣霊王の肩書は伊達ではなく、幻獣や神獣がもつ能力をほぼ網羅した変異種だった。そのため鳳凰の治癒能力と麒麟の復元魔法をまぜて使う。即死でなければ、傷を治すことにかけて最上級の魔法を施す男だった。


 ベルゼビュートが使う精霊術による治癒魔法は、彼女自身の魔力を対価として、治癒対象者の体力を消耗させる。そういった対価が不要な分だけ、ベールの治癒は際立って有効だった。対抗意識を燃やしたルキフェルが治癒魔法陣を開発するまで、治癒に関してはベールの独壇場だったほどだ。


「ベルちゃんが? なら大丈夫ね」


 ベールの治癒能力を知るリリスは、安心した顔で頷いた。リリスの白い指が摘んだスコーンが割られ、クリームやジャムを乗せて差し出される。口をあけて受けたルシファーが、指に残ったジャムをぺろりと舐めた。

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