659. 溢れ出るチョコレートと

 くすぐったいと笑う少女に、周囲の少女達は目のやり場に困って俯く。悪い大人の悪戯に、呆れ顔のアデーレがちくりと釘を刺した。


「陛下、アスタロト大公閣下をお呼びしますわよ」


 ぎくりとしたルシファーの顔色が変わり「悪ふざけが過ぎた」と小声でぼそぼそ謝る。しかし後片付けを終えて、治癒をベールに丸投げしたアスタロトはすでに後ろにいた。


「ルシファー様、私を呼ぶと言われて謝る理由を……ご説明いただけますね?」


 びくりと肩を揺らして振り返ったルシファーが息をのむ。しかしすぐに肩の力を抜いた。気配は剣呑ではない。言葉遊びの範囲だった。ならば返す言葉は自然と決まる。


「構わないが……だ」


 逃げの一手と侮るなかれ。アスタロトはにっこりと機嫌よく微笑んだ。言葉に含まれた隠語を、聡明すぎる男は読み解いた。『祭りの後』すなわち『この人生が終わる時』と置き換えれば理解しやすい。死ぬまで近くで仕えて、最後の時にまとめて応えてやる。彼が好む答えに、互いに寿命が見えない2人は楽しそうに笑った。


「男同士は何かズルイわ」


 置いてけぼりにされたと、頬を膨らませたリリスが抗議する。隣のルシファーの純白の髪を引っ張って、不満を表明した。そんな彼女の額と頬にキスを落とし、ルシファーは穏やかに呟く。


「うん、今が一番幸せだな」


 この言葉はリリスの愛情が示されるたび、口癖のように溢れる。何度も、リリスが隣にいる現実を確かめながら、不安に駆られる気持ちを落ち着けるために繰り返されてきた。


「ルシファー様、あまりゆっくりする時間はございません。民がすでに集まっておりますから」


 城門の外に民が押しかけている事実を告げられ、残っていたスコーンを2人は互いに食べさせ合って食事を終えた。






 結界に守られたファウンテンに、ルシファーが魔法陣を設置する。汲み上げて循環させる経路に、魔力を供給するためだ。豊富な足元の龍脈を利用し、明日の朝まで自動で動き続けるようセットされていた。


「では作ったチョコレートを流すぞ」


 すでに開会宣言を終えたカカオ豆祭りは、新しい温泉街の名物になるだろう。甘党が多い魔族にとって、新しいチョコレートは興味の対象だ。今までの黒卵のチョコレートと比べるため、黒卵のチョコレートを持参する者までいた。


 今朝の騒動を起こしたドラゴンやシェンロン、獣人だけでなく様々な種族が集まっている。ユニコーンや虹蛇も参加し、鱗があるラミアや巨大蜘蛛のアラクネも目を輝かせて見守った。どの世界も女性は甘いものが好きらしい。スッポン鍋ほどの期待はないが、少量のチョコは美容や健康にいいとアンナが口にしていたので、いずれルキフェルの配下が研究を始めるだろう。


 ファウンテンの内側にチョコを転送し、循環させる。上部を食い入るように見つめる魔族の耳に、こぽっと溢れ出した音が響いた。1段目、2段目と満たされては滴る濃茶の液体に、人々は歓声を上げる。


 飛べる種族が舞い上がり、上から掬い取ったチョコレートを味見した。それを狡いと騒ぐ前に、下の段までチョコレートが流れてくる。魔王城の備蓄入れ替えを兼ねて、保存食料として用意されたビスケットやマシュマロが振る舞われた。


「思ったより豪華だわ」


 アンナのはしゃいだ声に、リリスも微笑んで「童話の挿絵みたいね」とルシファーに話しかける。


「皆、甘い物が好きだから喜ぶだろう」


 穏やかな雰囲気が広がり、誰もが譲り合って溢れ出るチョコレートを楽しむ。専用の柄杓が用意され、直接食べ物を浸すことは禁止された。魔獣であるヤンは、専用の器によそってもらう。ピヨはヤンの顔の横から嘴を入れ、ピヨの気を引こうとチョコレート入りの器を用意したアラエルが必死で呼ぶ。


 持ち込んだパンを浸して染み込ませる者達の横で、ルシファーは昨日までの苦労が報われたと安堵の息をついた。正直、間に合わないと焦ったが、協力者が多くなんとかなった。


 ここまで民が喜ぶなら来年も開催しようか……移動できない種族もいるから、ファウンテンを毎年移動して祭りを開催する方法もいいな。後で大公達に提案して予算を取ろう。


 気を抜いたルシファーを責めることは出来ない。彼は民の喜ぶ顔に、心を添わせていた。それを油断と呼ぶのは気の毒だった。


 しかし――朝の火種は、この平和な光景の中で炎上した。

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