1059. 懐かしい過去の思い出

 実験に参加した獣人や魔獣を含め、日本人もやることは同じだ。与えられる食べ物を残さず胃に収め、毎日の検診に付き合う。ひたすら食べて時間を潰すだけの日々だった。


 予定された実験期間は1ヶ月、長いのか短いのか。きっちり結果が出るまで付き合うよう、上司から言われたアンナだが、計算の書類処理が回ってきた。書類の運搬業務が多いイザヤにも、書類の仕分けが届けられる。


 書類の往復用に、魔法陣付きの箱が部屋の隅に設置された。署名や押印は特殊インクを使っているため、魔法陣を通すと文字が消えてしまう。しかし処理前の書類は、まったく問題なかった。


 書類を行き先別に分ける兄の近くで、妹は得意な算盤で計算していく。ちなみに算盤はこの世界にもあったので、便利に使わせてもらった。上司が言うには数代前の先輩が残していったお古らしい。


 何かの歯を削って作られた玉は手触りがいいし、軸もしっかりしていた。枠はやたらと軽い木材が使われている。算盤を弾く音と、書類の紙を捲る音だけが響く部屋に、ルキフェルが乱入した。


「お祝い事があったから、お振る舞いね」


 慌ただしく入ってきて、空いているテーブルに唐揚げが詰まれた皿を置いた。柚子の香りがするので、リリスが好きなコカトリスの唐揚げだろうと見当をつける。


「リリス様のお祝い事みたいね」


「いいカンしてる。やっと大人の女性になったんだって」


 肩を竦めて教えてくれたのは、性教育を担当したのがアンナだからだ。他の獣人達はお祝いとしか知らない。


「一応、秘密ね」


「当たり前よ。女性にとって大切なことだもの」


 頷くアンナに笑いかけ、ルキフェルはすぐに部屋を出た。忙しいのだろう。隣の部屋のドアを開ける音がする。そんな彼の足音が遠くなる頃、弾いていた算盤の手を止めて口元を緩めた。


「でもよかったわ。何も知らなかったら大騒ぎだったもの。私もお兄ちゃんも大騒ぎしたわよね」


 くすくす笑いながら告げる。母がいない家庭のため、突然の流血にアンナは混乱して泣いた。学校で習っていても、そういう現象がある、程度の軽い知識だった。どれを買って使えばいいのかわからず、店のおばさんに半泣きで頭を下げる。恥ずかしいけれど、一緒に買いに行ってくれた兄はもっと恥ずかしかっただろう。


 母親代わりに選んでくれたおばさんに礼を言って、使い方を簡単に教わり……お腹が痛いと動けない妹を負ぶってイザヤは家に帰った。お赤飯を炊くと聞いたので、料理本を調べて用意する。すべてが懐かしい。


「赤飯を炊いたな」


「考えてみたんだけど……あれってあからさまじゃない?」


 赤いお米を出すなんて。そう告げるが、そもそもお赤飯はお祝い事に出すものだ。たまたま赤い色が重なっただけだろう。ただ年頃の妹が恥ずかしがるのも頷けた。


「餅の方がよかったか」


「餅米は入ってたけどね」


 アンナのお祝いに出されたお赤飯は、餅米の比率が高すぎた。おかげで歯にくっつくお萩のよう。それも今となれば思い出のひとつだった。


「お兄ちゃんが用意してくれて、私は嬉しかったわ」


 あの頃は恥ずかしくて言いづらかった感謝を口にし、アンナは照れ隠しのように計算を始める。算盤の音が響く部屋は、唐揚げの湯気と柚子の香りが漂った。


「冷める前に食べようか」


「規定外の食事だけど、全員もらったみたいだし。お祝いだから頂かないとね」


 アンナも落ち着いたらしい。イザヤと並んで座り、唐揚げに箸を伸ばす。前の世界なら絶対に食べられなかったコカトリスの肉は、下処理のおかげで毒も臭いもない。上質な鶏肉に似た柔らかさで、ドレッシングとよく合った。


「この世界にきて、お兄ちゃんと結婚できるの……本当によかった」


 あの日、兄に負われて帰るアンナは天に祈った。いつか大好きな兄のお嫁さんになって、彼の子を産みたい――と。その願いは手の届く位置にあった。

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