336. この子は悪くないもの

 雷で作った矢を指先から放ったリリスは、額を貫かれたキマイラに近づいた。月光が再び降り注ぐ庭は散々たる有様で、美しい薔薇と噴水の面影はない。どうっと音を立てて膝をついた胴体が、庭の薔薇を潰しながら横倒しに転がった。


 桜色のドレスの裾を摘まんで歩くリリスの表情はわずかに陰っている。


「リリス様、まだ危険です」


「平気よ。この子、望んで暴れたわけじゃないもの」


 大地に倒れたキマイラの尻尾と翼がわずかに動いているが、もう身を起こす力はない。近づいたリリスは手を伸ばして、残った左目に微笑みかけた。両目の間を何度も両手で撫でる。大きなライオンの顔は、リリスの身長ほどもあった。


 巨大な牙を剥いて唸り威嚇したが、すぐに大人しく目を閉じる。優しく毛皮を撫でるリリスの白い手に、キマイラは牙を納めた。ぐるぐると猫科特有の甘える声が響き、やがてそれが途絶えるまで、リリスは微笑みながら手を動かし続けた。


「リリス様、これでよかったのでしょうか」


 倒したキマイラが完全に死んでも撫でるリリスの様子に、ルーサルカが迷いながら口を開いた。


「ええ、この子は魔物として生きられないからしかたないわ。作った人には罰が必要だけれど」


 割り切った様子で顔を上げたリリスは、桜色のドレスを摘まんで軽やかな足取りで駆け戻る。ルシファーが腕を広げると、自分の居場所に飛び込んだ。


「おかえり、リリス。見事だったね」


「うん」


 キマイラは不幸な実験によってのみ生まれる。自然発生しない命を、世界は守ろうとしなかった。それでも命は命で、生きたかった本能だけが残されて漂う。


 殺してあげれば自然の中に戻れるのだ。肉体は別の魔物の血肉となり、やがて残されたすべてが魔の森の土に還る。命や感情も吸収されて、生まれ変わることが出来るだろう。無理に生かすより、殺す方がキマイラのためになると、リリスはいた。


 出来るだけ苦しませず、暴走した魔力を鎮めて短時間で送ってあげたい。彼女の提案に、周囲がこぞって協力を申し出てくれた。キマイラの血を操って殺せるルーシアは、ただ熱い身体を冷やすだけ。風の刃で首を落とすことが可能なシトリーも、ルーシアの手伝いに徹した。


 炎で包んで燃やし尽くせるレライエはブレスを封印し、巨体を押さえつけた薔薇を操ったルーサルカも、目を貫いて動きを止めたイポスさえ、全員がキマイラに手加減して動いた。それはキマイラを解放するリリスの目的のためだ。


「キマイラについて話を聞かせていただけますか?」


 ベールの問いかけに、リリスはルシファーに抱き着いたまま頷いた。顔を見せない少女の様子に、アスタロトが別の提案をする。


「もし辛ければ、明日でも……」


「今日でいいわ」


 舞踏会は途中で終わったため、まだ宵の口だ。月が昇って間もない、夜の帳が降りていない時間帯だった。ようやく顔を上げたリリスは、しかし予想に反して泣いていない。


「パパ」


「おいで、リリス」


 甘えるように両手を伸ばしたリリスを、軽い動作で抱き上げた。首筋に顔を埋めて抱き着いた少女を連れて、ルシファーが執務室へ向かう。後ろに従う側近や少女達は気づかわしげに視線を交わしながらも、無駄口は叩かずに付き従った。


 ドレス姿のまま、リリスはルシファーの膝の上に乗せられる。アデーレによって用意されたソファへ、アスタロト、ベール、ルキフェル、ベルゼビュートがそれぞれ座った。下座からルーサルカ、シトリー、レライエ、ルーシアが腰を下ろす。騎士であるイポスは着座を辞退して、入り口側に立った。


 香りの高い紅茶が注がれて、全員分用意されたところでアスタロトが口火をきる。


「では詳細を教えてください」

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