471. 兄の決断と妹の想い
「この味、お母さんが作ったのと似てる」
ぐすっと鼻を啜ったアンナが泣いてしまったため、結局イザヤが再び口を開いた。
「失礼しました。阿部は魔王様に庇護される立場を望みながら、それを裏切りました。彼と同類に思われるのは当然ですが、俺は妹を守りたい」
話を聞いたリリスが膝から飛び降り、止める間もなくアンナに駆け寄る。涙を拭う彼女にハンカチを手渡し、左手に掴んだお菓子も差し出した。受け取ったアンナが椅子から立ち上がり、リリスと視線を合わせるために芝の上に座る。
「お姉ちゃん、リリスと同じなの!」
嬉しそうにアンナの黒髪を撫で、自分と違う手触りに首をかしげた。それから何か思いついたのか、黒髪の先をきゅっと握って「綺麗にな~れ」と魔法を使う。つい先日オレリア達に使おうとした魔法だった。兎の毛が紛失した大事件を思い出して青くなったルシファーだが、今回はきちんと成功したらしい。
アンナの黒髪は艶を取り戻し、不健康な生活と環境で精神的に追い詰められボロボロだった肌は整っていた。オレリアが綺麗になったときと同じ現象である。咄嗟にアンナへ結界を張ったルシファーのお陰もあるが、全員が安堵に胸を撫でおろした。
この場でアンナの髪がばっさり失われたら、発狂ものの大事件になるところだった。しかし事情を知らないイザヤは目を見開いたあと、机に頭をこすりつけんばかりの勢いで「ありがとうございます!」と叫ぶ。
「……ありがとう」
お礼を言われたと嬉しそうに戻ってきたリリスが、手を広げたルシファーの膝の上に乗せられた。己の手が届く場所に戻ってきた幼女に言い聞かせる。
「お菓子を分けたのは偉いが、勝手に動いちゃダメだぞ」
「そうだよ、リリス。お姫様なら大人しくしてなきゃ」
ルキフェルも援護に入る。召喚者との会話をアスタロトに丸投げしたため、ベールはルキフェルに餌付けの真っ最中だった。お菓子や軽食を口に運んでは食べさせていく。呆れ顔のベルゼビュートは、自分の紅茶にハーブを散らして味を調整していた。
「お待たせいたしました」
「申し訳ございません」
少女達が到着し、空いた席を埋めていく。予想外に大所帯になったため、正方形のガゼボからはみ出した少女達と召喚者に、午後の暖かな日差しが降り注いだ。
ルーサルカとシトリーが並び、向かいにルーシアとレライエが腰掛けた。転移が許可され巨大な魔族の発着所となった広場がある中庭と違い、花や木々が多い前庭はあちこちにベンチやアーチが飾られている。散歩道も整備された庭は、見た目重視の美しさを誇った。
「イザヤ、お前は妹を守る為に阿部を切り捨てるのか?」
リリスが半分に割った菓子を飲み込んだルシファーは、新しい菓子を魔法で取り寄せる。そのついでのような気軽さで、重い言葉を吐いた。
「切り捨てたくない。だが奴の道連れも嫌だ」
本音になればなるほど、言葉が荒くなる。普段の口調がこういった硬い感じなのだろう。素で話すイザヤに、ルシファーが口元を緩めた。武骨で真っすぐな性根の持ち主は好ましい。
「余が阿部を切り捨てる、と?」
お前はそう考えているのだろう?
試すように口を開いたルシファーの様子に、アスタロトは「この人はまた」と小声でぼやいた。苦笑いしたベールも頷く。ルキフェルは不満そうに唇を尖らせた。ピンクの巻き毛をくるくる指先で巻くベルゼビュートも気に入らないらしい。
「寛大な魔王様の限界が近いと思う。阿部は怒られた理由もわかってない」
「ふむ……勇者の器に
言葉遊びに近いやり取りを切り上げるルシファーは、リリスの口にお菓子を運ぶ。ぱくりと食べたリリスの頬に残る欠片を、指先で掬ってぺろりと舐めた。仕事モードが切れたことを察した側近が結論を口にする。
「簡単ですよ。ルキフェル、
「20日は欲しいけど、最短で18日ぐらい」
ガブリエラ国で自動攻撃を仕掛けた魔法陣に、召喚魔法を逆転させる記載があった。ピンポイントでその魔法陣だけを解析すれば、さほど時間はかからない。すでにある程度の解析をしたルキフェルは、紅茶を飲みながら淡々と返した。
「ルシファー様。魔法陣が完成したら勇者を送り返しましょう」
「座標が特定できるなら許可しよう」
告げたルシファーの表情に気づいたイザヤは、一度目を見開いた後でゆっくり伏せた。魔法陣で帰れるとして、その選択肢や順番は魔王の判断に任せるしかない。もし帰れる人数に制限があるなら、妹は親の元へ戻してやりたかった。
口にしないのは――決めたからだ。この世界にいる間、庇護者である魔王ルシファーの言葉に逆らわず、否定せず、弱者の立場に甘んじることを。イザヤはすでに選んでいた。
目を伏せた兄の横顔を見ながら、妹アンナは淡い笑みを浮かべる。もし戻れる数に限度があって、誰かが残るとしたら……それは私であって欲しい。優しい兄もきっと残ってくれる。ずっと秘めてきた兄への恋慕が咎められないとしたら、この世界こそ彼女の楽園だった。
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