946. 痛くないのかしら

 危険だからと説明する間に、結界の外の靄が晴れてきた。爆発の煙で白く塞がれた視界がクリアになると、予想外……ではなく宣言通りの光景が広がる。


 ベルゼビュートの右腕が折れている。青紫に腫れた肘を見ながら、ルシファーが溜め息を吐いた。対してルキフェルにケガは見当たらない。やり過ぎかと思うが、頼んだ手前止めづらかった。ここはベールを呼ぶか?


 これ以上、魔王軍の仕事を邪魔すると後が怖い。あのタイプは忙しくなるとキレるから、あまり無理をさせたくなかった。仕方ないので、自分で止めに入る。


「ルキフェル、その……」


「わかってるよ、両手両足で我慢してあげるから」


「……そ、そうか」


 楽しそうに笑う無邪気さに滲む残酷さは、蝶の羽をむしる子供と同じだ。後で治せば問題ないと判断したのだろう。だが治癒が得意なベルゼビュートを倒してしまって、ルーシアやルーサルカで対応可能か? まあ、オレが治してもいいが……。


 以前に熱を出したルキフェルを治そうとして、失敗した記憶が過ぎる。今回はケガだから大丈夫だろう。いきなり爆発したりしないはずだ。自分に言い聞かせたルシファーは、ごくりと喉を鳴らした。どうも魔力量が多い大公への治療で失敗する傾向がある。互いの魔力が反発するのか。


「ベルゼ姉さんは、痛くないのかしら」


 考えに没頭するルシファーの背中から顔を覗かせ、リリスが不思議そうに呟いた。そこで気付く。彼女はあれほどの傷を治そうとせず、そのままルキフェルと組み合っていた。痛覚が麻痺しているか、操る者は痛覚がないのか。ならば捨て身の攻撃を仕掛ける危険もあった。


「ルキフェル! 痛覚が麻痺してるかも知れん。気を付けろ」


 注意に手を振って答えたルキフェルが、ベルゼビュートの蹴りを避けた。ふわりと空中で一回転したルキフェルが、手を口元に当てて考え込む。


「物理的に切り落とす?」


「却下だ」


 即座に切り返したルシファーに、残念そうなルキフェルが頷く。その頬を剣先が抜けた。ぎりぎりで回避したルキフェルが、剣を握る左腕に絡み付いた。空中でくるりと向きを変える。ごきんと鈍い音がして、ベルゼビュートの腕がだらんと落ちた。手にした聖剣が大地に転がる。


 肩の関節を外したのだ。この方法ならば、切り落とさずに無効化できる。


「ぐぁあああ」


 獣のような声を上げたベルゼビュートの口から泡が飛び出す。痛みは感じている。しかしそれを無視して動く何かに支配された彼女の身体は、何とかルキフェルを排除しようと右手を持ち上げた。震える指先でルキフェルに手を掛けようとする。


 距離を詰めたルキフェルが、にっこり笑って優しい声で囁いた。


「無様だね、ベルゼビュート。もうルシファーの側近を名乗れないよ」


 直後に右腕の肩も外した。両腕が使えない状態で、今度は蹴りを放とうと足掻く。いっそ哀れなほどの実力差だった。もしベルゼビュートが正気だったなら、互角以上の戦いを繰り広げただろう。


「ルキフェル。弱い者いじめはちょっと……」


 もう少し手加減してやれ。後ろの少女たちの目もあるので、嗜めようとした瞬間――ベルゼビュートの動きが変わった。足を奪おうと蹴りを放ったルキフェルの攻撃を避け、逆に伸ばした彼の足を上から踏みつけて骨を折る。


「くっ、痛ぅ……何これ。最低よ、女性には優しくしなさいって、教えたでしょう!!」


「あんたに教わった記憶はないけど……僕の足を折らなくても防げただろ」


 ルキフェルはさっさと己の体内を巡る魔力で治癒を施す。あらぬ方向を向いた脛は一瞬で元に戻った。


「あたくしは折られてたのよ?!」


 怒りと屈辱が引き金か、ベルゼビュート本人の叫びが口をつく。次いで己の両肩を修復し、右肘の骨折を治した。身体中の傷が色を薄くし、傷口を塞ぎ、徐々に元の美しい姿を取り戻す。だがピンクの巻毛は乱れて、一部ストレートになっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る