1141. 幼児に対する醜い嫉妬

 レラジェを攫ったリザベルの件が一段落し、魔王城は平穏を取り戻した……わけはなかった。


「おいで、ヴラゴ」


 弟感覚のレラジェがいないためか、単に母性本能が擽られたのか。リリスがヴラゴを連れ歩くようになった。翡翠竜をバッグに入れて持ち運ぶレライエに、この子も袋に入れるべきか相談したという。執務室で話を聞いたルシファーの手元で、ばきんとペンの折れる音がした。


「ルシファー様、ペンも無料ではありませんよ」


 注意するアスタロトは、面白がる色を隠そうとしない。新しいペンを取り出して、ルシファーの前に置いた。むっとした顔でペンを手に取り、署名して押印する。だんっ! すごい音がして印は押されたが、周囲に朱肉が滲んでいた。


「印章が割れます」


 また注意される。それがルシファーの神経を逆撫でした。


「今日は仕事しない」


 ぷいっと横を向いた大人げない主君に、アスタロトは肩を竦めた。宥めて機嫌を取ることは出来るが、その場凌ぎになる。解決はリリスとヴラゴを交えて行ってもらいましょう。アスタロトは突き放したように、目の前の書類を片付けた。インク瓶まで綺麗に引き出しにしまうと、立ち上がって一礼する。


「妻が心配ですので、今日は早退します。ルシファー様もリリス様のところへ行かれてはいかがですか」


 さらりと嫌味を残し、アスタロトは執務室を出た。後ろで何かに八つ当たりする音が聞こえるものの、破られたり汚れて困る物は片付けたので問題ない。


「……まだ子供相手に、あの人は」


 苦笑いが浮かんだ。ルシファーの言動は、単なる嫉妬だ。自覚があるのに認めて近づくのも癪で、物に八つ当たりしている。そのうち落ち着くでしょう。相手をしていたら、いくら時間があっても足りません。


 言葉通り、アデーレが休む漆黒城へ向かうため中庭から転移した。その後ろ姿を見かけたリリスは、目を輝かせる。今日の仕事は終わったらしい。ならば、一緒にヴラゴと遊んでくれるはず!


「イポス、上に行くわ」


 宣言してヴラゴを抱っこしたまま、執務室のある3階まで階段を駆け上がる。水色の小竜は驚きながらも、羽をばたばたと動かした。黒髪が乱れて絡んでしまい、笑いながら解く。


「ルシファー、いる?」


 ノックと同時に開いたリリスは、後ろのイポスに引っ張られて尻餅をついた。手元の短剣で飛んできた物を弾いたイポスは、ほっと息をついてからリリスを抱き起した。


「失礼いたしました」


「っ! 悪い、ケガはなかったか!?」


 焦るルシファーに頷くイポスが、きょとんとしたリリスを立たせて押し出す。素直にルシファーへ向かったリリスは、こてりと首を傾げた。


「何が飛んできたの?」


「……文鎮だ」


「どうして投げたの?」


「ちょっと苛立っていて、ノックが聞こえなかった。ごめん。イポス、助かった」


 素直に謝るルシファーに「いいよ」と許すリリス。その腕の中で、きょろきょろと両方の顔を見比べたヴラゴが鳴き声を上げた。


「どうしたの?」


 リリスの視線が下を向くと、ルシファーが複雑な気持ちを誤魔化すように息を吐き出した。ここでまた八つ当たりする気になれない。イポスがいなければ、リリスに向かって飛んでいた文鎮はぶつかっただろう。彼女には結界を張っているが、だから安全だと言い切れなかった。それが原因で嫌い、と言われたら泣ける。


「ママじゃなくて、お母さん。あっちがお父さん」


 中身まで子供になってしまったらしい。魔族は器に引っ張られる。リリスが赤子に戻った時も、しばらく幼いままだった。それを思えば、ヴラゴは完全に幼竜と同じなのだろう。リリスの胸元に抱っこされたからと、嫉妬するのは……いや、それは我慢しない。


 唇を尖らせかけたルシファーだが、思わぬヴラゴの言葉に目を瞬いた。お父さん……? オレが? リリスを母と認識したなら当然だが、そうか。男女ではなく、親子か。ならば母が子を抱き上げるのは普通の行為だ。すとんと折り合いがついた。

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