1156. 根は深かった

「で……記憶が数年飛んでる、と?」


 ルキフェルが腹を刺された。大量出血した。ベールが慌てて治療し、犯人は塵となって消滅した。聞こえてくるのは恐ろしい話ばかりだ。


 次々と飛び込んだ報告に顔を青くしていると、当事者がのんびりとやってきた。ルキフェルが着替えたいと主張したため、ベールが丁寧に世話をしたらしい。その際に話をした結果、数年ほど記憶が曖昧なようだ。正直、あまり実害はないのでベールも気にしていなかった。


 ルキフェルは幼児の頃に好んで着用した、刺繍入りの首元まできっちり襟がある服で小首をかしげる。昔のように甘えるルキフェルを、ベールは歓迎していた。成長を促したものの、やはり物足りなさを感じていたのだろう。その感覚はルシファーもリリスに対して感じるので、理解できた。


「どの辺まで覚えてるんだ?」


「僕はもっと小さかったよね。いつから抱っこ出来ない大きさになったのさ」


 むっと唇を尖らせて文句を言う。これは思ったより記憶が消えているな。ルシファーは苦笑いして簡単に状況を説明した。話の中で確認できたのは、飛んだ記憶が10年前後だろうとの推測だ。リリスの存在は記憶にあるが、まだ赤子に近い年齢で止まっている。アベル達日本人のことは覚えていないし、人族を滅ぼした話も分からなかった。


 業務は研究と記録だが、ほぼ毎日記録は続けていたため問題は生じない。まあ10年ほどの記憶であれば、15000年も生きたルキフェルにとって、大した損失でもなかった。彼にとっての問題は、ベールに抱っこしてもらえない大きさに育っていたことのようだ。


「リリスのお兄ちゃんになると言って、自分で決めたんだぞ。文句を言っても仕方あるまい」


 くしゃっと水色の髪を撫でた。こうして彼の髪を撫でるのも久しぶりだ。幼かった頃のルキフェルは良く撫でさせてくれたが、やはり青年姿になれば周囲が遠慮してしまう。身長も高くなり、目線が近くなれば中身は同じでも気を使うからだ。


「僕、元に戻りたい」


「……頑張れ」


 感動しているベールはどうかと思うが、ひとまず励ましておいた。否定するのは可哀想だろう。今のところ赤子に還ったのはリリスくらいしか知らないが、研究し続ければ戻れる可能性はある。ゼロではなかった。ぽんと肩を叩いたルシファーに、幼子の頃のようにべそをかいたルキフェルが抱き着く。


「すっかり戻ってしまったな」


 寿命が長い魔族の中には、こういった事例も少なくない。何らかの外的刺激や精神的な悩みなどで、精神が逆行する者はいた。ベルゼビュートでさえ、昔100年ほど記憶を失ったままだ。彼女の場合は取り返そうとしなかったので、何もなかったように流してしまった。


 あまり不自由は感じないのが正直なところだ。もちろん、ルシファーはここ10年ほどの記憶は永久保存版にしたいので、気を付けていた。間違ってリリスとの思い出が消えたら、大事件なのだ。


「日本人のことは、きちんと教えてやってくれ。アベル達が気の毒だからな」


「承知しました」


「日本人って何? 新しい種族?」


「説明しますから、こちらへ」


 ベールに説明係と面倒を押し付け、安堵の息を吐く。この場にリリスがいなくて良かった。彼女を混乱させるのも嫌だし、直そうとして無茶をされるのも困る。再び手元の書類を処理し始めたルシファーは忘れていた。


 ルキフェルはアスタロトと並ぶ人族排除の急先鋒で、アベルが亡命した当初は反目した間柄だったこと。交流した記憶のないルキフェルが、人族にしか見えない彼らにどう接するか。穏やかな光景を見慣れた魔王は平和ボケし、数時間後に盛大に反省し後悔することとなった。

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