160. ヤンは最強の呪文を口にした

「ちゃんともてるもん」


 ぷくっと頬を膨らませて抗議するリリスの可愛さに身悶えながら、ルシファーは視線を合わせてしゃがみこんだ。片膝をついて俯いたリリスの頬を突っつく。ぷすぅと空気が抜けた頬を撫でながら、折衝せっしょう案を考える。全面的に引くのはない。ならば……中間に落としどころを作るしかなかった。


 繰り返すようだが、ルシファーは愚鈍なお飾りの魔王ではない。配下から提示される政治的な書類の内容を理解し、きちんと整理して答えを導き出す優秀な頭脳を持ち合わせていた。そして現在、フル回転で優秀な頭脳を無駄遣いしているだけ――である。


「こうしたらいかがですか? 一度陛下にお預かりいただき、近くで出してもらい、リリス姫が手渡しなさったら素敵ですわ。冷やしたまま運べますでしょう?」


 侍女アデーレの助け舟に、リリスは嬉しそうに笑った。思わずキュンとしてしまったアデーレも満面の笑みで返す。そんな彼女達を横で見守るルシファーは……でれでれだった。危険人物レベルのデレ魔王だが、リリスに飛び掛らないようヤンが爪で押さえている。


「ヤン、この爪は?」


「陛下が不用意に襲わぬようにです。まだ姫は子供ですぞ」


「いや……オレを何だと思ってるんだ。淫魔インキュパスじゃあるまいし」


「似たようなモノですぞ。勢いよく飛び出したではありませんか」


 忠義を捧げた主君に対して、結構容赦のない獣様である。そして彼の言葉はもっともだった。ルシファーが動かねば気付かぬ程度の爪の掛かりようだったのに、興奮したルシファーが勢いよく飛びつこうとしたため、爪を引っ掛けた服の端が破けたのだから。


 溜め息交じりに諭すヤンの相手をしている間に、アデーレはとうで編まれた小さめの籠を取り出した。中にひとつ入れると、残りをルシファーへ示す。


「陛下、保存をお願いできますか?」


「もちろんだ! さすがアデーレ!!」


 手放しで褒めちぎるルシファーの喜びようは凄まじい。アデーレの手を取ってぶんぶん振るほどの感謝を示すにいたり、リリスがやきもちを焼いた。


「パパ! アデーレに触ったらダメッ!! リリスのパパなんだからっ」


 足を踏み鳴らして怒りを示す幼女に、今度はどう贔屓目に見ても幼児専門犯罪者まがいの笑みを浮かべ、ルシファーが近づく。ヤンが止める爪をかいくぐり、一瞬で彼女を抱き締めた。城内で禁止されたはずの転移を使ったと邪推するほど、素早い動きだった。


 あれほどの俊敏さ、勇者相手に戦うときも見せたことがない。


「オレはリリスだけのパパだぞ~、心配しなくてもリリスが一番だからな」


 涎が垂れそうな笑み崩れたルシファーは、それでもギリギリ美貌の魔王だった。あと少しで最後の……越えてはならない何かを突破しそうだが、まだ間に合う。


 ここでヤンは最強の呪文を口にした。


「アスタロト閣下」


 びくっと肩を揺らしたルシファーが鬼の形相で振り返る。しかし声はすでに届いているだろう。慌てて表情を取り繕い、焦ってプリンに駆け寄った。ちなみに左腕には頬を膨らませたリリスを抱いている。右手だけで器用にひとつずつプリンを収納した。急いでいるが仕事は丁寧だ。


 小さな魔法陣で冷却魔法をかけるのも忘れない。最愛の愛娘であり嫁となるリリスが作った、最初のお菓子なのだ。どんなに過保護に守っても足りなかった。


「陛下、ヤンに呼ばれましたが?」


 すべてのプリンを確保し終えたルシファーが顔を上げたところに、アスタロトが駆け込んできた。かなり距離があったのか、転移が使えないため苦労したようだ。金髪が乱れていた。


「そうか? 余は知らぬぞ」


「なぜ仕事モードなのでしょうね。今度は何をやらかしました?」


 やらかしたこと前提で尋ねるアスタロトだが、この場で彼を呼んだはずのヤンが見当たらない。丁寧に足元まで見回すと、机の陰で小さくなった大型犬サイズのヤンを発見した。

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