161. パパはあとで

「ヤン、どうしました?」


「わかってるな、ヤン」


 事情を問いただそうとするアスタロトと、話すなと圧力をかけるルシファーに笑顔で詰め寄られ、ヤンはこれ以上ないほど平べったく潰れていた。


 存在感を消そうと頑張る健気な獣が、魔の森最強の獣である灰色魔狼フェンリルとは誰も信じまい。そのくらい可哀相な状態だった。潰れた彼の上を飛び回るヒナの姿が奇妙に似合っている。


「パパもアシュタもダメ! ヤンが怖がってるもん」


 唯一の良心……というより、この場で発言できるのはリリスしかいない。アデーレもイフリートも気の毒そうな顔をしているが、庇える立場になかった。魔王とその側近である。勝手に話しかけられる立場になかったのだ。


 がくがくぶるぶる震えが止まらない敷き毛皮と化したヤンへ、リリスが駆け寄った。手を弾かれたルシファーが不満そうに手とリリスを見比べる。状況を理解しないヒナがリリスの手に頬ずりした。どうやら餌が欲しいようだ。しかしリリスは気付かない。


「かわいそうだから、もうダメ!」


「ひ、姫~。命の恩人ですぞ」


 目を潤ませたヤンを撫でるリリスがにっこり笑った。


「大丈夫よ、ヤンもリリスが守ってあげる」


「……ヤン、も?」


 奇妙な言い方を聞き逃すルシファーではない。ここで知らない男の名前なんか出たら、一族ごと惨殺しそうな黒い気配を背負って、リリスの前に膝をついた。


「あとは誰を守るのかな? パパにこっそり教えてくれないか」


 あちゃーと額を押さえるアスタロトが「血の雨が降りそうですね」と、局地的な天気予報を呟く。ここで知らない男の名前が出れば、的中率100%の予言に変わるだろう。


「パパよ」


「……オレ?」


 きょとんとした顔で瞬くルシファーから、黒い気配が一瞬で飛散する。でれでれと顔を笑み崩すと、リリスの胸元に顔を埋めた。最強の魔王を跪かせる時点で、世界最強の勇者となったリリスは愛想よく笑っている。パパがじゃれ付いていると思ったらしい。


「ちょ……何をしてるんですか。仮にもレディですよ」


 失礼だが当然の注意をして引っぺがす。仮にもがついていたが、リリスは嫁入り前のレディである。いくら嫁入り先が相手でも、胸元に顔を埋める行為が許されるわけがなかった。しかも侍女達の前である。べりっと勢いよく剥がされたルシファーを、少し先へ落とした。


「いたっ」


 乱暴に放り出されたルシファーが文句を言おうと口をひらき、ゆっくり閉じた。アスタロトが怖い。ここ数年の彼はオカンとして最強だった。説教されそうな気配に口を噤んだルシファーの判断は賢明だったが、出来るならもう少し早く気付くべきだ。


「助けてリリス」


 先ほどの言葉を守り、パパを助けるのだ! そう願うルシファーの思いを他所に、リリスは平面から立体に戻ったヤンを撫でていた。


「今はヤンの番だから、パパはあとで」


 ああ、無情。見捨てられた状態で、ルシファーが固まる。


「だそうですよ、ルシファー様。詳細は部屋でお伺いしますね」


「アシュタ、パパにひどいことダメよ」


「大丈夫ですよ。お話をするだけですからね」


「うん」


 最後の良心であるリリスが納得してしまったため、助けが来ない孤立無援となったルシファーはがくりと肩を落とした。そんな魔王の状況に、可愛らしく首をかしげたリリスが無邪気に強請る。


「パパ、配るプリン出して」


「……はい」


 萎れたルシファーの手から小さなプリンを受け取り、まずは後ろにいるアデーレに渡す。視線を合わせるために屈んだ彼女が微笑んで、礼を口にした。


「ありがとうございます、リリス姫様。きっと美味しくできておりますわ」


 嬉しそうに頷くリリスの姿を見ながら、アスタロトとルシファーが同時に頬を緩めた。

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