30章 勇者の紋章の行方

392. また呼んでもらえなかった

 魔王城の庭先にある魔の森はかなり復元していた。魔王軍の部隊が交互に演習を行い、ルシファーが吸い上げた魔力を返還しているのだ。アラクネの領地はすでに復元が終わったため、魔の森の一部は演習地代わりに各種族に活用されていた。


 流し込まれる魔力に応じて、魔の森が緑の美しい姿を取り戻していく。普段ならば木々が損傷すると数日で魔力を吸い上げる森だが、今回は魔力を注がれるまで吸収を抑えてるようだった。ルキフェルやベルゼビュートの報告で知った事実だ。


 魔の森に意思があり棲む種族を絶滅させないために調整しているようだ、とルキフェルは不思議そうに報告書を作る。魔の森の外周を調べるベルゼビュートも、同様の報告書を作成して送ってきた。精霊の頂点である精霊女王が言うなら間違いないのだろう。


 魔の森の外周に関しては、弱い種族が住まう地域を優先的にした。虫食い穴のように立ち枯れ区域が残る地図を見ながら、ルシファーは溜め息をつく。新しく広がっていた魔の森の領域は予想外に大きく、人族が住まう海辺を圧迫していた。


 つい先日人族が襲撃したのも、狭まる領地に困惑しての行動だったかも知れない。緩衝地帯として設けられた森はとうに吸収された。魔の森が大陸全土を覆いつくすのも時間の問題だ。


「こんなに増えていたとは」


 数万年単位で魔の森を見てきたが、増減はほぼなかった。それがここ10年ほどで急激に成長を始めたと言われても、原因が思いつかない。たまたま成長期だったという推論や、地殻変動などの前触れではないかという説がでていた。


 各種族の言い伝えを集めるついでに、魔の森の成長に関する情報も収集しているが何もわからないのが現状だ。


「戻りましたわ、陛下」


 ベルゼビュートがピンクの巻き毛を揺らして近づいた。中庭に転移した気配は感じていたので、顔を上げて労う。相変わらず胸元を強調したドレスで、ルシファーが広げた地図の上に手をついた。


「ご苦労、何かわかったか?」


 魔の森の外周部分と既存の森に違いがあるか、調査していた上級精霊族ニンフの意見は重要だ。森の木々に関しては、精霊や妖精に勝る種族はない。ルシファーの膝の上で寝ているリリスが、「ふぅん」と可愛い声を上げて寝返りを打った。


「こことここ、あとはこちらを調べてきましたけれど……魔の森内部となんら違いが見られませんわ」


 何も違いが見当たらない。土や植物に強い影響力を持つ精霊が、魔の森の木々と直接対話しても理由がわからなかった。木々に言わせれば「生えるべき場所に生えただけ」なのだ。自ら生まれ出た理由を知る種族がいないのと同じで、木々に理由はなかった。


「そうか」


 つい1時間前まで、各種族の長や貴族達が集まって『魔の森の拡大について』を議論した。しかし推論を裏付ける物証はなく、また食い止める方法もない。


 森が広がる現象を抑えるには木を伐ればいいのだが、通常の森ならば……という注釈が付いた。魔の森で同じ行為を行えば、魔族や魔物が魔力を吸われて死んでしまう。打つ手がなく、結局会議は結論が出ないまま終わった。


「ついでに魔の森に魔力を流してきましたので、明日はお休みをいただきますわね」


「ああ、ゆっくり休んでくれ」


 膝の上ですやすや眠るリリスの頬に手を触れたベルゼビュートが、不思議なことを呟いた。


「森と同じ気配ね。素敵、本当に可愛い子だわ」


 理知的な他の大公と違い本能と感情で動く彼女の言葉が、妙にルシファーの心に残る。一礼して執務室を出るベルゼビュートを見送って視線をさげると、起きたリリスが突然声をあげた。


「だぁ…! パぁぱ……あぶ」


「パパって呼んだのか? リリス。もう一度……ほら、パパって呼んでごらん」


 地図や状況を忘れて必死に言い聞かせる。大きな赤い瞳がぱちぱちと瞬きして、口に突っ込んだ指でルシファーの頬に触れた。純白のさらさらした髪を涎で汚しながら、赤子は口を開く。


「ぱ……ぁ」


 中途半端な声に、ルシファーが肩を落とした。愛らしい声で「パパ」と呼んでもらえるのは、まだ少し先らしい。ノックの音に入室を許可すれば、書類を抱えたベールがルキフェルと顔を見せた。


「どうしました?」


「またパパと呼んでもらえなかった」


 パパ呼びまであと一歩のところで、届かない繰り返しだった。ここ数日の惜しい声を思い出しながら、ルシファーがぼそっと呟く。しょんぼりする魔王に、ベールが堪えきれず吹き出す。報告書を机の上に積みながら、手を伸ばしたルキフェルが「すぐだよ」と慰めた。

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