555. 女神の加護という籠

※流血表現があります。

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 火事を免れた大聖堂周辺は、魔獣達により包囲された。中の神官にしたら、あのまま焼け死ぬことが出来た方が幸せだっただろう。逃げ込んだ信者は、血塗れの景色に驚き怯えた。ルシファーを含めた全員が姿を消した大聖堂は、呻き声が充満する野戦病院さながらの光景が広がる。


 数人が傷の手当てに動くが、傷が深く手に負えない。薬も治癒魔術が使える者もない状況で、人々に出来たのは止血のために布を結ぶ程度だった。食べ物や水がない大聖堂の周囲では、悲鳴や逃げ回る人々の怒号が飛び交っている。


 派手に瓦礫が崩れる音が響くたび、大聖堂の住人達は首を竦めて震えた。少しすると気づく者がちらほらと現れる。


 魔獣や魔族が、この大聖堂に入ってこないのだ。


「ここにいれば、助かる……のか?」


「女神様のご加護だ」


 女神像を拝み、信者は涙しながら祈りを捧げた。徐々に死んでいく神官を見ないフリで己を騙し、信仰に逃げ込む姿は愚かの極みだ。数時間経って危機感が麻痺し始めると、今度は別のことが気になった。大聖堂にいるべき人物が見当たらないのだ。


「聖巫女様がおられない……」


 茫然と呟いた誰かの声に、ざわめきが広がった。女神の代理人たる聖巫女はどこへ消えたのか、囚われたのではないか? 最初は心配が信者の顔を曇らせた。そうして一通り案じる声が収まると、今度は疑惑が浮かぶ。人はどこまでも自分が大切な種族なのだから。


 傷ついた足を引きずり、千切れた手足を拾い集め、疲れと恐怖に震える身体を寄せ合う人々にとって、精神の支えである聖巫女の不在は見逃せない。天井近くの梁に腰掛けたアスタロトが、興味深そうに足元の人々を眺めた。


「頃合い、でしょうか」


 ここに主を呼んで楽しみたいが、あの人はこういう趣向は嫌いでしょうし。楽しんでいるだろうベルゼビュートの邪魔をするのは気が咎め、ルキフェルかベール辺りに声をかけることにした。熟した実は腐って落ちるもの――これは世の理だ。


 幸いにして、ドラゴンはこの大聖堂を中心に教会を取り囲んでいた。指揮を執るルキフェルの魔力も近くに感じる。ルキフェルを呼べば、過保護なベールも飛んでくるため、大公2人を観客に悲劇の演出が出来るだろう。


 口元に浮かんだ笑みを裂くようにして、小さく名を呼ぶ。


「ルキフェル」


「どうしたの?」


 予想より早く表れたルキフェルは、両手をドラゴン形態に変化させていた。小さな角が水色の髪から覗く青年は、全身返り血に汚れている。


「楽しんでいたところを邪魔しましたか?」


「うーん、もうかなり済んだかな。外の魔獣やドラゴンはまだ楽しんでるけど、僕達は役目もあるから」


 大公である彼らは後始末を含め、もう少ししたら切り上げて魔王の元に集う必要がある。


 神龍族は別の場所で楽しんでいるし、ドラゴン種はこの辺りで手を引かないと「獲物を取り過ぎ」だと非難されかねない。そう匂わせたルキフェルは肩を竦めた。好青年の外見で恐ろしい内容をけろりと語ったルキフェルは、縦に走る瞳孔を細めて足元の獲物をみる。


 好物を前に我慢する獣のような表情に、アスタロトが笑顔で提案した。


「さきほどルシファー様から賜った聖巫女が手元にあります。象徴たる女の不在で苛立つ彼らの中に、無傷で物知らずな聖巫女を放り出したら……」


 意味ありげに言葉を切って反応を窺うアスタロトへ、顔を伝う返り血を拭うルキフェルが無邪気に言い放った。


「それならベールも呼んで、ベルゼビュートにも聞いてみよう」


 同僚を呼び寄せるルキフェルの声に、応じたのはベールの方が早かった。魔王軍の指揮官として、きっちり軍服を纏った彼は銀の長い髪を後ろで結っている。


「ルキフェル、楽しそうな遊びですね」


 事情を伝えられたベールの軍服は黒く濡れていた。濃い色の軍服を湿らせる返り血は、彼が魔術や剣という手段より爪や牙を好んで遊んだ証拠だ。


「残った獲物の分配先を決める必要がありますね」

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