639. 望まぬ不幸をあやす母

 外見が美しいだけの大公とアスタロトを侮っていた獣人達は、己の浅はかさに焦って声を張り上げた。判断ミスも甚だしい。こんな魔力の塊のような化け物相手に戦うのは、勇気ではなく蛮行だった。


 それも魔王本人ではない。配下に降った大公なのだ。これほどの魔力を宿す存在が、形を持ち意識を保っている。己の意思で動くことが、恐怖を掻き立てた。


「やべえ」


「逃げろ!!」


 散り散りに走る獣人の中から、獲物に定めた者を追った。逃げる獲物を追う習性は、何も魔獣だけの特権ではない。逃げられれば追いたくなり、歯向かわれれば潰したくなる。吸血種族の残酷さを、その美しい外見から想像できないほど強く受け継ぐアスタロトは剣を振るった。


 魔法や魔法陣で決着はつけない。誰にでもわかる方法で徹底的に心を折り、身を叩きのめす手段を好んだ。獣人も竜種も魔獣達も、弱肉強食の理を尊ぶ。ならば大公たるアスタロトが彼らにみせる礼儀は、圧倒的な力の差で潰すこと。


 向かってくる狼獣人の腹を剣で叩き、斬らずに刃を逃す。逃げる鹿獣人の速さに追いつき、足を叩き折った。転がる狐獣人が隙間へ潜ろうとする、その尻尾を剣で貫いて地面に縫い付けた。いっそ死を許されるなら、彼らにとって救いだったはず。アスタロトは無残に、願いも救いも剣先の露と散らした。


 悲鳴と懇願の声が広がる中、逃げ損ねた数人を魔力で縛り上げる。見回した数は予定していた半数を上回った。


「……やりすぎましたか」


 すこし反省するが、捕まえた者を逃すのも口惜しい。悩んだ末、捕らえた18人を魔力の縄で繋いで城門へ転移した。


 拠点を見回し、残りが逃げたことを確認してから火を放つ。森に燃え移らないよう監視しながら、灰になった建物が崩れるのを見届けた。雨を呼んで火の始末を終えると、自らも魔王城へ帰還する。






「アスタロト、こちらへ」


 戻るなり、険しい顔のベールに呼ばれる。他の大公2人も戻ってきていた。午後の日射しが真上から降り注ぐ城門の陰に、それぞれの獲物が並ぶ。


 ルキフェルが持ち帰ったドラゴンや竜人は鎖に繋がれ、大量の罪人夫婦を檻に入れて並べたベルゼビュート。アスタロトが大蛇を放置して捕らえた獣人は傷だらけで動けない。人族の魔術師が悲鳴を上げるたび、ヤンやピヨが脅して黙らせた。ベールの命令ですべての獲物は魔王軍が監視の任に当たる。逃げ場はなかった。


「何かありましたか?」


 各々の獲物に問題はなさそうだが、ベールの後をついて城門の塔に入ると……若い獣人女性が赤子を抱いていた。急遽用意した柔らかく毛足の長い絨毯の上にクッションを並べ、彼女らは赤子の世話をしたり休んでいる。


「彼女らは?」


「人族の砦の捕虜です。どうやら望まぬ出産だったらしく……」


 声をひそめたベールの気遣う響きに、アスタロトは言葉を飲み込んだ。女が望まぬ出産なのだとしたら、子を成す過程も望まぬ不幸だったと察する。それでも我が子を捨てずにあやし、乳を飲ませるのは本能だろう。この子らに罪はないと、彼女達は理解していた。


「……だから人族なんて滅びればいいのに」


 一足早く戻ったため、事情を聞いたルキフェルが舌打ちする。ベルゼビュートは整った形の眉をひそめ、腕を組んでいた。豊かな胸を支えるように組んだ手は、白くなるほど力を込めて肘を握る。同性だからこそ理解できるし、同性だから許せないのだ。


 尊厳を踏みにじる行為をした輩を殺しても、きっと気持ちが晴れることはない。赤い紅に彩られた唇を切れるほど噛んだ彼女に、男は揃って口をつぐんだ。


「保護したのですね」


 アスタロトの声に滲んだ疑問に、ベールは何か言いかけて口を開き、何も言えずに閉じた。

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