903. 嫌いになりたくないの

 視察旅行での宴会はすべて中止が通達された。理由は温泉街での騒動である。かなり不満が出たようだが、そこの対応はベールやアスタロトがきっちり行っただろう。


 過去に魔王城から漏れた噂が作用して、夜は獣になるルシファーが魔王妃を襲うため危険との誤報が流れたが、その後数日でぴたりと噂が止まった。噂の出所が処分されたと黒い想像が人々の間で囁かれたのは、民の娯楽として見逃される。


 投獄されたラインの従兄弟と思われる少年は、あっさり……と言えるほど短時間で事情を吐いた。容赦ない責めを行ったアスタロトは、それはそれはご機嫌で報告書を作る。筆の滑りは最高潮で、さらさらと書き上げた報告書を魔王の執務室へ積んだ。


「時間が出来たので、明日は休みをもらいますね」


 文官達へ一方的に通達する。しかし苦情が出ないのは、それだけアスタロトが優秀だからだ。怖いのも多少あるが、部下に対して理不尽な暴力を振るう人ではない。こなした仕事もきちんと評価し、種族に関係なく平等に扱うアスタロトは上司として人気があった。


 魔王の署名押印をもらい箔をつけようとする書類を、手前で弾いて処理していく手際も見事だった。長期視察とお披露目でとどこおると思われた書類処理は、スムーズにこなされていく。笑顔で送り出す文官達へ手を振り、アスタロトは己の城へ戻った。


 蝙蝠城やら漆黒城やら、二つ名の多い城は重厚な家具が並ぶ。黒檀など全体に濃色が多いため、外の明るい日差しが差し込んでも室内は薄暗い印象だった。銀龍石を多用した魔王城とは正反対だ。


「お義父様! アベルを返して」


 廊下の途中で呼び止める義娘に、アスタロトは整った顔をゆがめた。困惑した表情を取り繕うと、考えておいた言い訳を口にする。


「彼を閉じ込めたりはしていません。話が終われば、きちんと送っていく予定で……」


 ただ、その後10年ほど行方不明になってくれたらいい、と考えている程度だ。


「あなた、そんな言い訳通りませんわよ」


 いつの間に休暇を取ったのか。侍女長として忙しく立ち働くことを選んだ妻の加勢に、内心で舌打ちする。厄介なことになりそうだ。策略を巡らすアスタロトの出鼻を挫こうと、アデーレは豊満な胸を強調するように腕を組んだ。


「アベルは私の息子になるのですから、返していただきます」


「……まだ決まったわけではありません」


 抵抗するアスタロトの唸るような声に、アデーレは呆れ顔で溜め息をついた。


「いいの? 嫌われるわよ、ルカは本当にいい子だし……まさか嫁に出さないなんて馬鹿なこと言い出さないわよね。そんなこと言ったら、寝てる間に封印してやるわ」


 強制的に眠りに落ちる吸血種にとって、一番無防備になるのは眠りの間だ。それを互いに時期をずらし、守り合うことで保身してきた。その時期を狙って封印を施されたら、寿命が尽きるまで地下室から出られない可能性もある。


「ルカの寿命はアベルより長いわ。嫌われたら彼が死んだあと戻ってきてくれないかも知れないわね」


 恐ろしい予測を立てる妻は、にこにこと笑みを浮かべている。自分はルーサルカの味方なのだから、いつでも可愛い娘と会えると言いたいのだ。あまり頑なに拒んで嫌われるより、いったん引いて数十年を彼に委ねるべきか。人族の寿命は瞬きほどの時間なのだ。


 適当なところで妥協して引くしかない。敗色濃厚になったアスタロトの腕を掴んだルーサルカが、身長差を利用して見上げた。


「お願い、お義父様……私、お義父様を嫌いになりたくないの」


「…………っ、仕方ありません」


 そこまで言われたら、返すしかないだろう。完全に者ではなく物扱いなのだが、当事者である彼らは気づいていなかった。

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