662. 損害ゼロの奇跡

 がくりと首が項垂れる姿に焦るが、リリスの治癒は確実に傷を癒している。魔法陣を使わないため、効率が良くない。どうしても漏れてしまう魔力を、傷口に直接手を触れることで制御するリリスの額に汗が浮かんだ。内側から治すリリスの治癒が、表皮手前まで火傷を修復し終える。


「リリス、一度手を離せ」


「どうして?」


「魔法陣を使う。良くやったぞ、ここまで回復すれば、後遺症もなく綺麗に治してやれる」


 微笑んでリリスを労い、左手に複数枚重ねた複雑な魔法陣を浮かべて見せる。リリスの赤い瞳が瞬いて、口元が少し綻んだ。無残な火傷の痕に触れていた白い手が離れるのを待って、ルシファーは魔法陣をドラゴンの背に当てる。


 ばさり、背で音がして4枚の翼が広がった。治癒に注ぐ魔力を翼から供給していく。


 あの威圧の際に翼を出さなかったのは、ルシファーなりに周囲を気遣った結果だった。怒りで感情が揺れた状態であっても、最悪の事態は避けたのだ。もし翼を出した威圧を放ったなら、直接向けられなかった魔獣の子や妖精は消し飛んでいただろう。


 右手で回復を促す魔法陣をひとつ描き、範囲や効能を多少弄ってから地面に刻んだ。そちらにも魔力を流して発動させ、足元の地脈と繋ぐ魔法陣を重ねる。失われた魔力や血、疲れや怠さを軽減させる魔法陣を魔王城全体に広げて溜め息を吐いた。


「手が空いた者から報告を」


 声を張り上げると、侍従のベリアルがメモを手に駆け寄った。


「申し上げます。ベルゼビュート大公閣下が損害ゼロを確認いたしました」


 死者は出なかった。最高の報告に、周囲の魔族の中にざわめきと歓声が広がる。


「よかったわ」


 血と体液で汚れた手を拭いたリリスが微笑む。額にかいた汗で張り付いた黒髪を、ルシファーの冷たい指が触れて汗を拭った。ドラゴンの背に描いた魔法陣がひとつ割れる。続いて2枚目も砕けた。最後の魔法陣は時間をかけて回転し、薄くなって消える。


 すべての魔法陣が消失したドラゴンの背は、美しく硬い鱗が輝く。火傷により溶けて剥がれた鱗は艶を放ち、その下の焼け爛れた肉や皮膚は瑞々しい状態を取り戻した。リリスが内側から治したため、神経や筋肉も正常だろう。


 巨体を生かして、攻撃から幼子を守ったドラゴンを何度も撫でる。微笑む魔王妃の慰撫に、怯えていた魔族の中に安堵が広がった。もう安心なのだ、守られている、何かあっても助けてもらえる。実感として広がる安堵に、子供を抱いたラミアが涙した。


 折れた脚を復元されたアラクネ、妖精が守った魔獣の子、傷ついた毛皮を癒された獣人。ルシファーが足元に刻んだ治癒魔法陣を簡略化したルキフェルが満足そうに頷き、治癒能力の使い過ぎで頭痛に顔を歪めるベールが溜め息を吐いた。


 ベルゼビュートは数え終わった参加者を、事前登録したリストと比較してチェックを終える。当事者以外の欠けなく事件が片付いたことで、ほっとしたルシファーが大きく息をついた。


 大人げなく威圧したことで、幼子に影響が出ていないか。今さらながらに気になった。視線を受けたベールが苦笑して首を横に振る。問題ないと告げる側近に頷き、隣でぺたんと地面に座ったリリスの前に片膝をついた。


「平気か? 疲れただろう、リリス」


「すこし。でもね……みんなが無事でしょう? すごく気分がいいわ」


 にこにこと笑顔を振りまくが、座り込んだまま立てないらしい。魔力を大量放出したあとの倦怠感に襲われているのだろう。もう少しすると回復しようとする身体が、睡眠を要求するはずだった。まだ気の張る彼女は気づいていない。


 肩に手をかけ、膝の裏に腕を入れて抱き上げる。揺れた身体を支えようと首に手を回してルシファーに抱き着いたリリスが「きゃぁあ」と小さな声をあげた。


「危ないわ、ルシファー」


「ごめんね、リリス。不安だからこうしていて」


 自分が望んだことだと彼女を安心させるセリフを吐いて、数歩歩く。首に回された手が少し緩んで、代わりに肩に黒髪が押し付けられた。ぐったりと力の抜けた身体が重さを増す。


「やっぱり寝たか」


 魔力を放出しすぎて寝てしまう現象は、ルシファーも子供の頃に経験がある。ルキフェル達も通った道だった。魔族なら似たような経験をして大人になるのだが、リリスは魔力量が多すぎて魔力枯れと呼ばれる状況を知らない。突然寝ると思ったが、予想通りの状況に頬が緩んだ。


 なぜか安心したのだ。魔の森の一部であるリリスも、他の魔族と同じ――愛しい少女を抱き上げたまま、ルシファーは木陰に移動した。

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