405. 腹ペコ勇者の腹の虫

 以前アスタロトに叱られた時に罰として座らされた正座姿で、きちんと両手を揃えて待つ勇者の後ろから巨体が振動と共に迫った。


「我が君の仇!!」


 なぜか死んだ扱いにされたルシファーが顔を引きつらせる。大きな灰色の狼が青年に襲い掛かるのを、片手で止めた。鼻先をとんとん叩いて落ち着かせる。中庭で近距離転移が使えてよかったと安堵しながら、ルシファーは勇者に歩み寄った。


 巨大な狼に襲われかけたというのに、彼に怯えはない。


「ヤン、落ち着け。勝手に殺すな」


 敵討ちされる状況ではないと言い聞かせ、ルシファーは左腕のリリスに視線を向ける。疲れたのか、幼女はうとうとと首を揺らしていた。そっと黒髪に手を添えて、自分の胸元に寄り掛かるよう姿勢を直す。


「うにゃぁ」


 意味不明の声を上げたリリスは首に回した手を引き寄せた。可愛すぎる!! こんなの天使過ぎるだろ!! 鼻血をぐっと堪えて、治癒魔法まで駆使した魔王の努力に、後ろに控えるアスタロトが嘆かわしいと溜め息を吐く。


 ぎゅっと抱き着いた愛し子の背中を叩いて寝かしつけながら、足元でお行儀よく待つ勇者を見下ろす。転移魔法陣で飛ばされた上、大きな狼に襲われかけた人族とは思えない。エルフの耳に興味をもったのか、いろいろ質問をしていた。まったく怯えていないし、恐怖心もないらしい。


 魔族に囲まれた勇者は子供のように目を輝かせていた。


「あ、殺さずにいただきありがとうございます」


「いや……何やら訳ありのようだ」


 いきなり礼を言われると思わなかったので、一瞬言葉に詰まる。ちらりと斜め後ろを窺うと、アスタロトは平然と無表情を装っていた。


「詳しい事情を聞こう」


「陛下、お話は私が承った方がよろしいと思われます」


 魔王陛下に直答する気か貴様。そんなニュアンスが透ける側近の丁寧な発言に、ルシファーは逆らわずに頷いた。面倒くさいし、話を聞きだして整理するのはアスタロトが得意だろう。


 首に顔を埋めたまま眠るリリスの吐息が、ときどき首にかかって擽ったい。ルシファーの意図を酌んだエルフが侍女を呼びに走った。背中をリズムよく叩きながら、少し身体を揺すってリリスがよく眠れるように配慮するのは忘れない。


「お待たせいたしました」


 すぐにアデーレがお茶の用意とテーブルセットを始める。手際のよい彼女のおかげで、近くの大木が作る日陰にお茶の用意が整った。よく見ると椅子は3つだ。イポスも一緒なので4つ必要だろうと口を開きかけたところで、ヤンがくるりと丸くなった。


 大木の根元にできた毛皮ソファに座ると、ヤンが満足そうにくーんと鼻を鳴らす。鼻先を撫でてやり、その口に収納魔法から取り出した肉を放り込んだ。隣で咀嚼する物騒な音が響くが、リリスは気にせず眠り続ける。


 アスタロトとイポスが左右に陣取り、正面に勇者が座った。茶菓子が置かれると、勇者の腹の虫が鳴いた。ぐぅううと盛大な音に目を瞠り、アデーレが「どうぞ」と小皿に取り分けて目の前に置く。


「あの……」


「とりあえず食べてから話をすればいい」


 ルシファーが許可したので、アスタロトは口を噤んだ。


「あ、ありがとうございます」


 拝み倒すように手を合わせて礼を言った勇者は、驚くスピードで菓子を平らげる。あまりの空腹に喉を詰まらせながらも飲み込む姿に、アデーレが途中で食べ物を変更した。サンドウィッチといった軽食が出され、紅茶も飲み干すたびに注ぎ足す。


 待っている時間が長そうなので、ルシファーは愛しいリリスの頬を優しく撫でたり、黒髪を手櫛で梳いたりと有意義に時間を過ごしながら、ヤンの毛皮に包まれていた。


「ご馳走様でした」


 一息ついた勇者の食べた量は、成人男性のおよそ2倍だ。かなり空腹だったと知れる。一緒に来た自称勇者や騎士達は元気そうだったが、彼だけ食事を与えられなかったのだろうか。

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