574. 魔王妃の決断

 リリスの手が優しく背中を洗い、長い髪を掴んでいたルシファーの前に回り込む。真っ赤な顔で恐る恐る手を伸ばすので、反射的に止めてしまった。


「……リリス?」


「お嫁さんは、旦那さんのを洗うものだって……だから」


 ぼそぼそと口にする知識の偏り具合に、がくりと項垂れた。そうか、これが違和感の正体か。やっと状況が理解できた。魔王陛下の魔王様を洗うと思っていたリリスは緊張しており、何も知らないルシファーとの間に温度差を生んでいた。


 とりあえず湯船にリリスを誘導し、膝の上に座らせた。柔らかい彼女の身体を腕の中に閉じ込め、顔を見ない状況で知識を修正していく。


「リリスは何もしなくていい。これ以上の知識もいらない。こういうのは、結婚して初めての夜に旦那さんが教えるものだから。先にいろいろ覚えてるのは、よくないな」


「う、うん」


「焦らなくていい。リリスはまだ12歳、これから大人になるんだ。焦らなくてもいずれは大人になってしまうんだから、子供でいられるうちはオレの可愛い娘でいてくれ」


「うん」


 納得したらしいリリスの頭に顎を乗せると、クスクス笑いながらリリスが薔薇の花びらを掬う。新しい源泉から引いた湯は、強い硫黄の匂いがした。白い湯に浮かんだ白薔薇の花びらを指先で摘み、リリスは鼻に近づけた。微かに香る薔薇の香りに、口元が緩む。


「あのね、リリスは早く大人になりたいの。でもこのままでもいたい」


 子供扱いされるのは嫌だと言いながら、大人ぶるのも苦手。そう告げるリリスの黒髪や額に口付け、ルシファーは正面の空を見上げた。屋内風呂に近い形状ながら、一方向だけ庭に向けて開けている。その先に広がる夜空は、大きな月が昇っていた。


「リリスはオレに決断を委ねただろう? 種、蕾、花――もしオレがリリスをすぐにお嫁さんにしたいなら、欲望のままに振る舞うなら花を選んだ。あのまま種のリリスでもよかった。それでも蕾を選んだのは」


 一度言葉を切って、振り返ったリリスの頬にキスをしてから唇を重ねる。触れるだけのキスで離れた。


「リリスとやり直したかったんだ」


 首をかしげるリリスの表情から考えを読み取る。わずか十数年の付き合いしかないが、リリスの成長をずっと見守ってきた。腕の中で護り慈しみ愛して、突然奪われかけたのだ。


「あの日、リリスはオレを庇って矢を受けた。魔王であるのに、オレは民や魔の森を代償として捧げてでもお前を取り戻そうとした。あの日を無かったことには出来ない。だが、その時点からやり直したかった」


 じっと見上げる赤い瞳に、穏やかな笑みが反射した。


「魔王妃を取り戻すために、魔族全てを犠牲にしようとした魔王であっても……やり直せるか?」


 あの日の決断をリリスはオレに委ねた。ならば、この決断はリリスにしてもらいたい。相応しくないと断じるなら、オレは魔王の地位を誰かに譲るつもりだ。可能性を考えるならルキフェル辺りでもいいだろう。すでに覚悟は出来ているから、リリスが下す決断に従う気でいた。


「リリスは……魔の森と約束したの。魔王妃になってルシファーを支える」


 リリスは魔の森を人のように語る。母親であると言い放ち、今も魔の森との約束を口にした。その真意はわからない。無理やり聞き出す気もなかった。必要なことなら、いつかリリス自身が話してくれるはずだ。


「わかった。ならば魔王妃の旦那さんは魔王の必要があるな」


 リリスが魔王妃となるべく生まれたというなら、その隣に立つに相応しい魔王であればいい。少し温い湯から上がり、ほんのりピンクに染まったリリスの頬にキスをする。


「もう寝ようか。オレのお姫様」


 ルシファーに頷いたリリスは、いきなり腕を掴んでルシファーの頬にキスを返す。それから真っ赤な顔で唇を重ねた。触れて離れた唇を、ルシファーがそっと指でなぞる。


「おやすみ、ルシファー」


「ああ、おやすみ。リリス」


 互いに微笑みあって、天蓋の中のベッドで抱き合う。静かな寝息を立てるリリスの顔を見ながら、やがてルシファーも目を閉じて眠りの腕に身を預けた。

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