1019. 知らぬは当人ばかりなり
お茶を飲んで休憩した後、うんざりするほど高く積まれた書類をルーサルカは無言で分類した。夢中になると周囲の声が聞こえなくなる彼女を見ながら、シトリーが眉を寄せる。
「アベルは気遣いが足りないタイプよ、きっと」
「でもルーサルカを好きなんでしょう? だったら彼女の子供は受け入れると思うわ」
ルーシアが不思議そうに呟く。完全にアベルが悪者だ。彼女達の間で、ルーサルカの子供を認めないダメ男に分類されていた。恋人の望みも叶えられない甲斐性無しの烙印が押される。
「もしかして……ルカ、妊娠したんじゃない? それで言えなくて」
「――聞き捨てならないお話ですね。詳しく教えてください」
妄想しながらも手元の作業は止めなかった少女達の上から、絶対零度の冷気を纏った声が降ってきた。
「アスタロト様……」
青ざめたレライエの声が掠れる。そこへシトリーは臆さず言い切った。
「私達が確認するまで待ってくださいね。ルカを傷つけることになるわ」
強い口調で言い切ったシトリーは、兄に似て気の強い令嬢だ。見た目が銀髪で儚い印象を与えるが、鳥人族は性格がキツい者が多かった。
「わかりました。お任せしますが、報告は」
「きちんとしますわ」
シトリーはにっこり笑って約束した。その姿はどこかアデーレに通じるものがあり、教育者の影響を強く受けたことを匂わせた。そのためアスタロトは苦笑して頷く。
「お義父様、何か……あ、新しい書類ですね」
ふっと顔を上げたルーサルカが気づいて頬を緩める。当初は怖い人だと思った。わかりにくい優しさに気づける余裕が出来れば、自分から距離を詰める。ルーサルカが分類した書類を受け取り、代わりに新しい紙束を置いた。
「今夜はアデーレが手料理を振る舞いたいそうです。時間が合えば友人を連れておいで、と伝言を預かりました」
「わかりました。誰が行けるかしら」
3人の友人達の物騒な相談を知らないルーサルカは、無邪気に大公女達に首をかしげた。
「私はお呼ばれするわ」
「予定はないのでお邪魔するわね」
「私も。アドキスも一緒で構わないか?」
アスタロトが頷くのを見て、ルーサルカも頷いた。大公女全員と翡翠竜の参加する夕食会を妻に伝えるため、アスタロトは部屋を出た。後ろ手に扉を閉め、廊下で眉を顰める。
「さきほどの不愉快な話の真相を探らせましょう」
シトリーを信じるかどうか、ではない。問題は可愛い義娘の幸せに絡む重要事案だ。配下の吸血鬼に指示を出したアスタロトの口元は、恐ろしい笑みが浮かんでいた。
「万が一があれば……楽に死なせませんよ」
物騒な呟きを聞いてしまったコボルトが数人、立ったまま意識を失う。すれ違ったアスタロトの気配が遠のいても、彼らは同僚に助け出されるまで動けなかった。
その頃のアベルは、アデーレに食事に誘われていた。夕食を手作りするため、ぜひ参加して欲しいと言われて困惑する。大公家のお呼ばれは、何を着ていけばいいのか。普通の服ではまずいと思う。その程度の感覚で、ルキフェルを巻き込んだ。
引きこもった仮の上司の部屋に乱入し、空気をあえて読まずに話しかける。
「というわけで、俺は何を着ていったらいいでしょう」
「……その服でいいじゃん」
「え? まずいでしょ、絶対にアスタロト大公に殺されちゃうよ」
話しかけられて返事をするが、ルキフェルは面倒臭そうに溜め息を吐いた。落ち込んでいるんだから、放っておいて欲しい。そう言ったところで、アベルは無視するだろう。この図太さが、良くも悪くも彼らしさだった。
「これならいいんじゃない」
魔法陣を使ってアベルサイズの服を仕立てる。といっても、自分の服のサイズ変更だった。そのため意外と簡単に仕上がったし、材料もあらためて用意する必要がない。煩い奴を追い出したい一心で、着せてから放り出した。
「……明日は出勤しなくていいから」
バタンと乱暴に扉を閉める。廊下に押し出された形のアベルは、自分の着ている服を確認した。スーツっぽいが民族衣装のような不思議なデザインだ。だが大公が用意した服なら、誰も文句は言わないだろう。浮かれた様子で礼を言って、アベルは足取りも軽く研究所を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます