481. 残りたい理由が切なくて
頭を下げたあと、部屋に常備されているポットでお茶を淹れ始めた。アベルの手つきは少し危うく、思わず口出ししてしまう。
「俺がやろう」
父子家庭で妹が料理を担当してくれたが、アンナが幼い頃は自分で料理もお茶も用意していた。慣れたイザヤの準備はすぐに終わり、香りのいい紅茶がテーブルに並ぶ。再びソファに向かい合って座る2人は互いに何を言えばいいか、迷って口籠った。
「あの……先輩達は、その……戻りたい、ですか?」
予想外の質問に、イザヤは無言で目を見開いた。先ほどアンナと話していて気付いたが、自分はさほど前の世界に未練がない。父は子供がいなくなっても困らないどころか、付き合っている女性と結婚するのに都合がいいだろう。
学校や環境も固執する要素はなく、安全に妹と生きていけるなら……この世界も悪くないと思う。そんなイザヤの想いなど知る由もないアベルは、覚悟を決めた表情で向き直った。
「僕は戻りたくない、です。いえ……戻ってもいいんですけど」
どちらだかわからない希望を伝えられ、イザヤは困惑した。戻りたくないが、戻っても構わない。つまり状況に流されているということか? それならばこうして伝えてくる意味は何だ?
湧き上がる疑問を抑えきれず、イザヤはわずかに身を乗り出した。
「戻りたくない理由があるなら、話してみろ」
今の状態で話を聞いても、頷いてやるくらいしか出来ない。しかし誰にも話せなかった事情ならば、口に出せばすっきりするだろう。今までの彼は一方的に自分の都合を押し付けてきたが、少し雰囲気が違った。
「僕、両親にとって都合のいい子供なんです。祖母がすごい資産家で、僕はその財産の受取人に指定されました。実の息子を相続人から外してまで、僕を可愛がってくれた祖母が死んで……未成年の僕を手放さないよう、仲が悪いのに離婚しない両親に挟まれて、あんな生活はもう戻りたくない」
浪費家の息子夫婦を嫌って行った祖母の行動は、可愛い孫に良かれと思っての
知らなかったアベルの事情に、イザヤは「大変だったな」と目の前の赤い髪を撫でた。学校で真っ赤な髪は校則違反で目立つ。何度叱られても黒く戻さなかった態度こそ、アベルの目いっぱいの反抗だったのだ。派手好きの目立ちたがりではなく……ただ不器用な子供だった。
「彼らが戻れるよう尽力してくれるなら、事情を話して納得して残れるよう協力する」
知らないことの怖さを知ったから、アベルは必死にイザヤに伝えた。もし軽蔑されたら、その程度のことで俺たちを巻き込むなと怒鳴られたら? そんな恐怖に耐えていたアベルがくしゃりと顔を歪めた。泣き出すなんておかしい。
ぐっと唇を噛んで耐えるアベルの頭にふれた手が、くしゃりと髪をかき乱して頭を押した。下げさせられた頬を涙が伝っていく。見えないように気遣ってくれるイザヤの不器用な優しさに、アベルは伝えられた本音を受け入れられたと知る。
「もっと……はやく、言えばっ……よか…た」
拒絶されないだけで良かった。しかし前の世界で疑心暗鬼になっていたアベルにとって、作った笑顔以外で人に接するのは恐かったのだ。傷つけられたくない。
「阿部……これからアベルと呼ぶぞ。この世界だとその方が似合う」
頷くが声は出せなかった。泣き声を噛み殺しながら、お茶のカップを見つめる。零れる涙を袖で拭いながら、アベルはようやく仲間を手に入れた。
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