09. この人に任せたら、今日中に終わりそうです

「え? 母乳飲ませるんだろ??」


 心底不思議そうに首をかしげる姿に、ベルゼビュートは大きな溜め息を吐いた。それから両手を差し出して赤子を受け取る。


「貸してください、あたくしが飲ませますわ」


 腕の中で大きな目を瞬く赤子に、零れたミルクを球体のまま近づける。形状を変更しながら四苦八苦してようやく飲ませることに成功した。大きな袋の先をすぼめた形にすれば、あっさり飲み始める。


「なるほど、飲ませる形があるわけか」


「ルシファー様、玉座に置いた育児書をよくお読みくださいね」


 アスタロトが用意した本は、そのまま放り出されている。玉座の上に置いて開いた様子はなかった。そして指示を出してくれるアスタロトは席を外している。


 このまま任せたら、この子が危ない。ベルゼビュートは世話係を押し付けられそうな予感に、肩を落とした。彼女の脳裏を過ぎるのは、賭けた1ヶ月の期間だ。なんとしても1ヶ月はもたせたい。


「ああ、育児書があったな」


 思い出したように開いて数ページ読んで、慌てた様子で近づいた。本を開いたまま、ある一点を指し示す。赤子を風呂に入れる絵が描かれていた。


「もしかして、産湯うぶゆとかいう風呂に入らせるんじゃないか?」


「あら、本当に」


 世界を席巻した魔王であっても、特に経理面で有能な側近でも、育児に関しては素人だった。産湯は産まれた直後に入れるのでもう必要ないが、彼らはわからない。慌てて魔王は大きめの容器を手配した。




 荘厳な雰囲気をかもしだす謁見の間の中央、赤い絨毯の上に一抱えもあるタライが置かれる。魔法で作り出したお湯を張り、手を突っ込んだ。


「温度って、このくらいか?」


「火傷しなければ大丈夫でしょう」


「人族は弱いからな…もう少し温くするか」


 基準がわからないので、体温より少し温いお湯を用意する。そっとタライに寝かせた。赤子はじっと魔王の目を見つめたまま――沈んだ。お湯の中にまるっと沈んでいる。


「これで合ってるんだよな」

 

 呼吸はどうするんだろう。沈んだ赤子をみつめる魔王の後ろから、腕が伸びて赤子を引っ張り出した。


「何をしてるんですか、ルシファー様! 死んでしまいます」


 お湯の中から出た瞬間、火がついたように泣き出した赤子にアスタロトが溜め息をつく。すこし目を離したら、赤子がお湯の中に沈んでいたのだ。絶対にこの人に面倒を見させられないと気付いてしまった。放置したら今日にも死んでしまいそうだ。


「さっきまで泣かなかったのに」


「泣けなかったんです!」


 お湯の中で泣けるわけがない。赤子は生後数ヶ月は水中でも平気だとか、そんな噂もあるが……普通に考えれば呼吸が出来ない状況だった。


 濡れた赤子を抱いたので、アスタロトはびしょ濡れだ。裸の赤子に手を伸ばしたルシファーは、直前で手を引いた。不思議そうな顔で覗き込んだあと、笑顔で指摘する。


「アスタロト、この子……おしっこした」


「は?」


 抱いた腕がじんわり温かい。てっきり赤子の体温が移ったと思っていたが、濡れていたせいもあり気付けなかった。ついでに、けぷっと可愛い音を立ててゲップをする。


 飲ませた後にゲップをさせなかったベルゼビュートの失態など知るはずがないアスタロトは、今後の騒動を思って肩を落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る